第二話 最初の質問
その学生を最初に覚えたのは、質問の内容ではなく、質問の向きだった。
秋の、まだ暑さの残る講義室だった。僕はその日、リルケを読んでいた。若い詩人への手紙。答えを性急に求めず、問いそのものを生きよ、という有名な一節を、板書して、解説していた。
前から三列目の窓際に、その学生は座っていた。ノートをほとんど取らない学生だった。かわりに、こちらの手元をよく見ていた。正確には、僕が開いている本の、綴じ目のあたりを。
講義の終わりに、その学生が手を挙げた。
「先生、その本、なぜそんなに開くんですか」
質問の意味が、すぐには飲み込めなかった。僕は、リルケの内容についての質問だと思って身構えていた。詩人の言葉について、解釈について。けれどその学生が訊いていたのは、僕が手にしている本そのものの、物理的なことだった。
見ると、僕の持っていた原書は、長年使ったせいで、背が柔らかくなり、どの頁でも手を離してもぱたりと閉じずに開いたままになっていた。
「よく開くのは、糸で綴じてあるからです」と、その学生は自分で答えを続けた。僕が答える前に。
「糊で固めた本は、こうは開きません。読むための本ではなく、しまうための本になってしまう。先生のその本は、何度も開かれて、開くための本になったんですね」
講義室に、少しの沈黙があった。
僕は、その学生の言ったことが、正しいのか間違っているのか、判断がつかなかった。文学部の講義で、二十年近く教えてきて、本の「開き方」について学生から指摘されたのは、初めてだった。
けれど、妙に忘れられなかった。
読むための本ではなく、開くための本。
その区別を、僕はそれまで考えたことがなかった。本とは、中身を運ぶための入れ物で、器のことは意識の外にあった。透明な、なくてもいいもの。ワインを飲むときにグラスを見ないのと同じように、僕は本を読むとき、紙や糸や綴じ目を見ていなかった。
その学生は、見ていた。
中身と同じ重さで、あるいは中身よりも先に、器を見ていた。
あとで知ったことだが、その学生は、講義で扱う作品を、内容だけでなく「どの版で読むか」で選んでいた。同じ小説でも、この文庫は活字が詰まりすぎている、この単行本は余白の取り方がいい、と。
作品の価値と、本の価値を、別々に測っていた。そして、その二つが一致したときにだけ、心から良い本だと言った。
僕は当時、それを少し変わった感受性として面白がっていた。
文学を学ぶ学生が、文学の中身ではなく、その周りばかり見ている。若い頃にありがちな、本質から目を逸らす照れのようなものだと。
いま思えば、逆だった。
その学生は、本質から目を逸らしていたのではない。僕が本質だと思っていたものの、もう一つの本質を見ていた。
言葉は、必ず何かに乗って運ばれる。声に乗り、紙に乗り、綴じられた束に乗って。乗り物のことを考えずに、乗っているものだけを論じるのは、片方しか見ていないのだ、と。
その最初の質問から、その学生との、長い会話が始まった。
会話、と呼ぶには、いつも少し奇妙な会話だった。
僕が中身の話をすると、その学生は器の話で返してくる。
僕がリルケの思想を語ると、その学生はリルケの詩集の、どの装丁がいちばんその思想にふさわしいかを語る。
噛み合っているような、いないような。けれど、続いた。何年も。
いま、机の上には、名前のない活版の詩集が立っている。
文字が、窪みとして返ってくる本。
あの秋の講義室の質問が、二十年かけて、この一冊にたどり着いたのだと思う。
「なぜそんなに開くんですか」と訊いた学生は、やがて、自分で開く本を作る人になった。
僕はあのとき、答えられなかった。
本がなぜ開くのか、僕は知らなかった。ただ、開く本を使っていただけだった。
その学生は、知りたかったのだ。
そして、知るだけでは足りずに、自分の手で作る側へ行った。
問いを持っていたのは、いつも、あちらのほうだった。
Posted at 2026/09/20 07:37:31 | |
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