
今朝の日経新聞朝刊の小さな記事に、妙に引っかかった。
「所得格差が拡大している」と感じる人が、最大で73%に達したという。
数字としては、ただの73%かもしれない。
でも、その数字の向こうには、たぶん無数のため息がある。
関西学院大学の四方准教授は、
今の現役世代の約半分が親の所得を抜けなくなっている、と指摘している。
そしてそれが、親から子へと、まるで見えないワイヤーのようにつながっているのではないか、と分析している。
この指摘は重い。
昔は、親を超えることが、ある程度当たり前の物語として用意されていた。
親より良い車に乗る。
親より少し広い家に住む。
親より遠くまで行く。
そういう未来が、まだ手の届く場所に置かれていた気がする。
もちろん、誰もが簡単に豊かになれたわけではない。
それでも、少なくともアクセルを踏めば、車は前に進むという感覚があった。
多少ガソリンが高くても、道が混んでいても、エンジンはちゃんと反応してくれた。
しかし今は違う。
アクセルを踏んでも、どこかで何かが空回りしている。
努力というガソリンを入れても、社会というエンジンが以前ほど素直に吹け上がらない。
若者が夢を見なくなったのではない。
夢を見るための道路そのものが、少しずつ狭くなっているのだと思う。
車離れという言葉がある。
でも本当に離れているのは、若者の心だろうか。
それとも、車を夢として持てるだけの社会の余白だろうか。
初めて自分の車を持った日のことを、今でも覚えている。
キーを回した時の音。
夜の道に伸びていくヘッドライト。
目的地がなくても、なぜか少し遠回りしたくなるあの感覚。
車は、移動手段である前に、未来へ向かうための小さな装置だった。
だが、親世代を抜けない時代において、その装置は少し高価になりすぎた。
家も、教育も、結婚も、子育ても、そして夢を見ること自体も、昔よりずっと維持費がかかるようになった。
だからこそ、この73%という数字は、単なる経済調査の結果ではない。
それは、社会のハンドルがどこか微妙にセンターを失っていることを示す、静かなアライメントの狂いのようにも見える。
若者がもう一度、
「いつかはあの車に乗りたい」
と思える社会であってほしい。
親の所得で未来の車線が決まってしまうのではなく、
自分の意志で車線変更できる社会であってほしい。
夜の駐車場で、少し冷えたボンネットに手を置きながら、そんなことを考えた。
社会にも、きっと調整が必要なのだ。
足回りを見直し、タイヤの接地を確かめ、ハンドルのセンターを取り戻すように。
人が前へ進むための道は、まだ完全には閉ざされていない。
ただ、その道を照らすヘッドライトが、少し暗くなっているだけなのかもしれない。
Posted at 2026/05/01 09:47:08 | |
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