
トヨタが、スープラの生産を終える。
そんなニュースを読んだとき、何かが胸の奥で小さく崩れた。
それは悲しみというより、ひとつの“リズム”が止まったような感覚だった。
スープラという言葉には、不思議な響きがある。
鋼のように硬質で、しかしどこか夢の中の音のようでもある。
90年代の空気を知る者にとって、それはただの車名ではない。
あの頃の深夜、海沿いの道を走り抜けるエンジン音、
心臓の鼓動と混ざって響いたあの低い唸り――
それらすべてが「スープラ」という名に溶け込んでいる。
だが、時代は変わった。
車が詩を語る時代は、もう終わりに近い。
今、道路を流れているのは、効率と安全性と沈黙のエネルギーだ。
それは悪いことではない。むしろ正しいことだ。
けれど、どこかで誰かが静かにため息をつく。
「これでいいのだろうか」と。
社会学者なら、こう言うだろう。
“個の速度から、集団の静寂へ”。
スープラの終焉は、一台の車の消滅ではなく、
「加速する夢」という概念そのものの終わりなのだと。
そんな中で、ホンダはプレリュードを“再び”この世界に呼び戻そうとしている。
名前の意味は“前奏曲”。
それはつまり、何かが始まる前の、あの静かな一瞬を指す。
プレリュードはかつて、都市の風景の中で最も美しい孤独を描いた車だった。
恋人を乗せた帰り道、交差点の青が雨に滲み、
ワイパーがその記憶をゆっくりと削り取っていく――
そんな時間を知る車だった。
そして今、その前奏曲がもう一度奏でられようとしている。
けれど、それは“同じ曲”ではない。
時代が変わり、聴き手が変わり、
音の意味が変わってしまったのだから。
学術的に言えば、それは「感性の再定義」である。
エンジン音はもう“力”の象徴ではなく、
“記憶”の残響になった。
プレリュードがもしこの時代に生き延びるとしたら、
それは速さではなく、静けさの中に宿る詩情によってだろう。
スープラが夜に消え、プレリュードが朝に現れる。
それは交代劇のようでいて、実は同じ旋律の別章にすぎない。
時代は、形を変えてもなお、
人が何かに心を動かされる瞬間を探し続けているのだ。
そして、私たちもまた――
静かにエンジンをかけ、
その音の奥に残された“人間の鼓動”を、まだ探している。
Posted at 2025/11/10 08:07:42 | |
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