
朝の6時半。
まだ街が完全に目を覚ます前の、あいまいな光の中でコーヒーを淹れる。
湯気が立ち上がるのを眺めながら、
折りたたんだ日経新聞をひらくと、
またひとつ、この国の“非現実”が静かに進んでいることが書いてあった。
「都内高級ホテル 客室料 世界最高 平均9万7000円」
ロンドンでもニューヨークでもなく、東京が世界一だという。
ラグジュアリーホテルの1泊平均、626ドル。
円安や訪日需要が理由らしいけれど、
僕たちの暮らすこの都市が、
いつのまにか別次元の価格帯で息をしていることだけは確かだ。
前日には、
「新築マンション 年収の10倍」という記事も見た。
住宅は空を飛び、ホテルは宇宙軌道に乗り、
僕たちの生活だけが取り残されている。
そんな感覚になる。
新聞の紙面の余白に、
今日も癖のように鉛筆で書き込んでみる。
「911 カレラ 992.2 約2000万」
値札が現実的なのか、非現実的なのか、自分でもよくわからない。
ただ、ひとつ言えるのは、
マンションは普通は5年で1000万位は価値を落とすのに、カレラは5年経っても1000万以上の価値を残す。
ホテルのように一晩で消える支出でもなく、マンションのように静かに沈んでいく資産でもない。
白い911は、ただ淡々と、価値を失わずにそこにいる。
東京湾沿いの静かな道路に停められた、夕暮れの白い992.2の写真を思い出す。
風のない冬の日、空と海の境界線が曖昧なまま、車だけが“はっきりとした輪郭”を持って存在していた。
マンションの価格が跳ね上がるのは社会の構造の問題で、ホテルの価格が世界一なのは、世界の旅行者が選んだからだ。
だけど、僕が自分の未来を選ぶときには、
もっと静かで、もっと個人的な“豊かさ”を考えたい。
人生はだんだん軽くなる部分と、
だんだん重くなる部分があって、
そのバランスを取るのは案外難しい。
でも、もし老後という長い午後に、
心がどこか遠くへいきそうになったとき、白いカレラがそっと鍵を差し出してくれるような気がする。
エンジンの音。
冬の空気を切り裂くタイヤの感触。
窓越しに流れていく海辺の風景。
そういうものは、ホテルの客室単価にも、マンションの坪単価にも換算できない。
家が年収の10倍になり、
ホテルが1泊10万円に近づく世界で、
奇妙なことだが、992.2の2000万円はむしろ地に足がついた現実的な数字に見えてくる。
だから僕は、この世界の価格がどれだけ跳ね上がっても、ひとつだけ静かに決めておこうと思う。
老後は、白いカレラで行こう。
それが、いまのところ僕の未来についていちばん確かな答えだ。
Posted at 2025/12/14 11:09:26 | |
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