京都丹波・福知山城
2020年大河ドラマ明智光秀の居城
2018年10月13日

2018年9月末、1日目2018年09月28日・竹田城(140枚撮影2時間17分)56箇所目~福知山城(93枚撮影・58分)57箇所目~岡山城+後楽園(177+89枚撮影・2時間10分)58箇所目。
~2日目2018年09月29日・大洲城(207枚撮影・2時間21分)59箇所目~今治城(235枚撮影・1時間56分)60箇所目~川之江城(77枚撮影・49分)61箇所目~丸亀城再び(107枚撮影・63分)18箇所目。
~3日目2018年09月30日・洲本城(222枚撮影・1時間58分)62箇所目~明石城(175枚撮影・2時間1分)63箇所目~岸和田城(84枚撮影・52分)64箇所目。
~4日目2018年10月01日・甲府城(185枚撮影・1時間36分)65箇所目(予定は上野城が台風で変更)で巡りました。
2018年09月28日●93枚撮影58分(天守工事中で見学出来ず)。
2019年GWに九州お城巡り2で、初日・2019年04月26日福知山城再び(88枚撮影77分)57箇所目。
~2日目・4月27日・津山城(243枚撮影3時間11分)71箇所目~福山城(273枚撮影1時間43分)72箇所目~広島城(172枚撮影1時間58分)73箇所目。
~3日目・4月28日・小倉城(194枚撮影2時間13分)74箇所目~福岡城(266枚撮影1時間50分)75箇所目~唐津城再び(172枚撮影2時間0分)9箇所目~名護屋城(218枚撮影75分)76箇所目。
~4日目・4月29日・平戸城再び(264枚撮影2時間0分)10箇所目~島原城(240枚撮影90分)77箇所目~原城(166枚撮影2時間1分)78箇所目。
~5日目・4月30日・佐賀城(185枚撮影1時間47分)79箇所目~中津城(247枚撮影1時間21分)80箇所目~府内城(174枚撮影1時間33分)81箇所目。
~6日目・5月1日・延岡城(179枚撮影1時間38分)82箇所目~佐伯城(382枚撮影2時間50分)83箇所目~臼杵城(296枚撮影2時間4分)84箇所目。
~7日目・5月2日・川之江城再び(201枚撮影79分)61箇所目~川島城(57枚撮影23分)85箇所目~徳島城(309枚撮影3時間3分)86箇所目~撫養城(88枚撮影47分)87箇所目。
~8日目・5月3日・岸和田城再び(224枚撮影2時間33分)64箇所目~法隆寺再び(186枚撮影64分)~伊賀上野城(390枚撮影2時間21分)88箇所目~伊勢神宮(100枚撮影62分)。
~9日目・5月4日・松坂城(384枚撮影2時間50分)89箇所目~津城(163枚撮影1時間43分)90箇所目~亀山城(120枚撮影61分)91箇所目~吉田城(171枚撮影1時間20分)92箇所目と回った時に訪れました。
2019年04月26日天守内撮影メイン●88枚撮影45分
2019年11月14日・福知山城再び(39枚撮影19分)57箇所目~兵庫県・篠山城(289枚撮影1時間57分)114箇所目~出石城/有子山城(197枚撮影・2時間6分)115箇所目~鳥取県・鳥取城(265枚撮影・1時間40分)116箇所目。
~11月15日・島根県・松江城再び(266枚撮影・1時間42分)6箇所目~月山富田城(411枚撮影3時間24分)117箇所目~鳥取県・米子城(234枚撮影・1時間52分)118箇所目。
~11月16日・岡山県・備中・松山城再び(413枚撮影・3時間46分)13箇所目~備中・鬼ノ城(294枚撮影・2時間15分)119箇所目~兵庫県・赤穂城(254枚撮影・1時間57分)120箇所目。
~11月17日・龍野城(364枚撮影・3時間24分)121箇所目~大阪府・千早城(126枚撮影・1時間55分)122箇所目。
~11月18日・奈良県・高取城(394枚撮影・2時間51分)123箇所目~大和郡山城(232枚撮影・1時間30分)124箇所目~伊賀上野城再び(65枚撮影・45分)88箇所目のお城巡りに組み入れました。
篠山城に行くのに福知山ICで降ろされたから急遽追加、2019年11月1日福知山城再々び(伯耆丸(ほうきまる)跡撮影)●39枚撮影19分。
タイトルにしたように、明智光秀の居城です。
明智光秀は、足利幕府と織田信長に使えた優秀な戦国武将です。
本能寺の変があまりにも有名で、裏切り者のレッテルが貼られて可愛そうな武将ですが、学問と戦いに長けた優秀な人なのに人気がない可愛そうな人です。
しかし、福知山が水害が多くいろいろ地元に尽くし地元での人気は高いようです。
信長の命により短期でお城を建てるに辺り墓石を使った等の話は有名で、私が天守台石垣一面で14個見つけました。
行った時は、来年の大河ドラマに向けての改修工事なのか?天守に入れず残念でした。
しかし、文武両道の光秀らしく美しいお城です。
京都からはだいぶ離れて兵庫県境に有りますが、当時京都を守る為兵庫県に沢山合った戦国武将に対処するには重要な地理的場所で有った。
そこを任されただけでも、信長が光秀を信頼していた事が伺えます。
関東から竹田城とセットで行く事をお勧めします。
関連リンクよりフォトギャラリー検索より写真を見てください。
==================HPより=======================
福知山城(ふくちやまじょう)は、丹波国天田郡福知山(現・京都府福知山市字内記内記一丁目周辺)にあった日本の城(平山城)跡。
江戸時代には福知山藩の居城であった。
1965年10月14日、市の史跡に指定。
2017年には、「続日本100名城」(158番)に選定された。
現在のような縄張りは明智光秀がおこなった。
畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた。
豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った。
丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした。
現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元された。
福知山城はその後、丹波亀山城を居城とする羽柴秀勝が城主となり、次いで杉原家次が城主となったが病没後、小野木重勝が城主となった。
豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に属し、東軍に属していた細川幽斎、細川忠興親子が立て篭もる田辺城を攻めた。
この時細川忠興は関東に出陣中で、細川幽斎が留守居役で田辺城の戦いとなり必死に防戦した結果、どうにか和議にこぎつけた。
関ヶ原の戦いの勝敗がはっきりすると、徳川家康の許しを得て、細川忠興は福知山城を攻め、小野木重勝は敗れ、亀山城下の寿仙院で切腹させた。
廃藩置県後の1871年(明治4年)によって廃城となり、1873年(明治6年)の廃城令によって解体された。
建物は払下げとなり二の丸の台地は埋め立てられた。
二の丸の建物は1887年(明治20年)取り払われ、建物一部の瓦は寺院や民家に使用された。
二の丸の台地は削り取られ、城門は観瀧寺、正眼寺、法鷲寺、明覚寺の山門になったと伝わっており、これらは福知山市重要資料に指定されている。
最後に残っていた二ノ丸の登城路付近にあった銅門番所は、1916年(大正5年)に天守台に移築された。
住所: 京都府福知山市字内記内記一丁目
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