
ベートーヴェン交響曲 第9番「合唱」
とは言うものの、やはりわが国では年末のクラシックと言えば「第九」なのです。
年末に第九を演奏する習慣。もともとは、第一次世界大戦終戦直後、ドイツの名門ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が、大晦日に「第九」を演奏し続けてきたことが始まりだそうです。
日本では第二次世界大戦後の1947年の年末に、日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が「第九」を演奏したことが今日まで続いているとのことです。
もう一つ、年末の「第九」が日本で定着した理由として経済的な理由があると言われています。
古今東西、オーケストラは金食い虫です。強力なスポンサーがついていれば安定した経営ができますが、そうでない場合はチケットがたくさん売れて儲かる興業をしなければいけません。
残念ながらほとんどのオーケストラはいつも黒字の演奏会ができるわけではありません。
でも「第九」ならお客さんが入ります。その上、アマチュア合唱団を起用すれば、コンサートには合唱団員の家族や友人たちが駆けつけてくれて満席間違いなしです。
こうした理由から、年末の「第九」が完全に定着したと言われています。
日本で最初に「第九」が演奏されたのは1918年。徳島県の鳴門市にあった俘虜収容所で、ドイツの捕虜たちにより演奏されたそうです。
ということは、来年はちょうど「第九」の日本初演100年になるのですね。
「第九」のあの有名な合唱。
小学生の頃に教わった歌詞が記憶に染み込んでしまって、第四楽章が始まるとすぐに弦楽器で奏されるメロディーにあの歌詞が乗っかってしまいます。
晴れたる青空 ただよう雲よ
小鳥は歌えり 林に森に
心はほがらか よろこびみちて
見交わす われらの明るき笑顔
花咲く丘べに いこえる友よ
吹く風さわやか みなぎる日ざし
心は楽しく しあわせあふれ
響くは われらのよろこびの歌
実に大らかなのんびりした歌詞ですね。
こんな能天気な歌詞がついちゃってるので「第九というのはおめでたい時の歌なんだ」と誤解してしまいます。
でも本当はかなり違うようです。
Freude, Freude, Freude, schoner Gotterfunken, Tochter aus Elysium,
フロイデ,フロイデ,フロイデ, シェーネル ゲッテルフンケン,トホテル アウス エリーズィウム,
と謳い始められるドイツ語の歌詞は、ドイツの詩人シラーの詩をもとに、ベートーヴェンが手を加えたものです。
ベートーヴェンが「第九」を作曲した当時、フランスの国民はブルボン王朝による君主制度を打ち倒しフランス革命を成し遂げていました。
一方、ベートーヴェンが暮らしたウィーンでは、ハプスブルク王朝が革命許すべからずと自由主義を弾圧していました。
フランス革命の民主主義に憧れ、ウィーンでも自由主義を実現したいと願ったベートーヴェンは、シラーの詩を借りることで厳しい検閲を逃れ、普遍的な人間愛や思想や創造の自由を求める思いを込めて作曲したと言われています。
そして、歌詞の中にある「ひざまづかないか!人々よ!創造主の存在に気付かないのか!世界よ!」という一節で、人間の基本的人権を抑圧する為政者に対する弾劾を訴えているのだそうです。
そんな崇高な思想が込められた「第九」にふさわしい演奏がいくつかあります。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団、合唱団
エリーザベト・シュヴァルツコップ(S)
エリーザベト・ヘンゲン(A)
ハンス・ホップ(T)
オットー・エーデルマン(Bs)
1951年 バイロイト音楽祭

あまりに有名なフルヴェンのバイロイト盤。
第二次世界大戦中もドイツに留まり、それゆえにナチス協力者の疑いをかけられたフルトヴェングラー。
大戦中はドイツ人の希望の星であった彼は、戦後は一転して犯罪者の疑いをかけられ、長い非ナチ化裁判の末に無罪となり、戦後6年の長い間禁止されていたバイロイトの復活を祝して指揮した「第九」。
フルトヴェングラーはもちろん、独奏者、合唱団、オーケストラも、祖国ドイツ復活に賭けた熱い思いを「第九」に込め、その熱気に聴衆も呼応してすさまじい高揚感の演奏です。
レナード・バーンスタイン指揮バイエルン放送交響楽団(シュターツカペレ・ドレスデン・メンバー、ニューヨーク・フィルハーモニック・メンバー、ロンドン交響楽団メンバー、レニングラード・キーロフ劇場管弦楽メンバー)
バイエルン放送合唱団(ベルリン放送合唱団メンバー、ドレスデン・フィルハーモニー児童合唱団)
ジューン・アンダーソン(Sop)
サラ・ウォーカー(Mez)
クラウス・ケーニヒ(Ten)
ヤン=ヘンドリンク・ローテリング(Bs)
1989年12月25日、東ベルリン、シャウシュピールハウス

1989年11月9日ドイツの東西分離の象徴であったベルリンの壁が崩壊しました。
ベルリンの壁崩壊を記念して、レナード・バーンスタインが東西ドイツに英米ロシアなどの混成オーケストラ・合唱団・ソリストのメンバーを揃えて「第九」を演奏しました。
この演奏では、ベルリンの壁崩壊を祝うために第4楽章の歌詞の“Freude(歓喜)”を“Freiheit(自由)”に変更して歌われています。
この時のバーンスタインはすでに肺ガンにより余命を告知されていたそうです。まさに命を削りながら渾身の指揮でした。
クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、ライプツィヒ放送合唱団、ゲヴァントハウス少年合唱団
シルヴィア・マクネア(S)
ヤルト・ヴァン・ネス(A)
ウヴェ・ハイルマン(T)
ベルント・ヴァイクル(Bs)
1990~91年、新ゲヴァントハウス

壁の反対側でも命がけで自由を求めた指揮者がいました。
1989年10月9日にライプツィヒで東ドイツの民主化を求めるいわゆる月曜デモが発生しました。
当時ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長(カペルマイスター)を務めていたマズアは、ホーネッカー政権の武力弾圧の方針に命がけで反対するとともに、月曜デモに参加した市民にも暴力の自制を求めました。
マズアらの呼びかけもあり、月曜デモでは流血などは起きず、ホーネッカー議長は辞任し、11月9日ベルリンの壁が崩壊、1990年10月3日東西ドイツ統一を実現できました。
マズアは「東西ドイツの再統一の立役者の一人」「活動する音楽家」として国際社会から賞賛を受けた。
1990年11月3日にベルリンのシャウシュピールハウスで、東ドイツ政府が主催した公式記念式典でマズアは「第九」を指揮しています。この録音はその式典と同時期の別の録音です。