
今回は、上野(群馬県)に残る神流川の戦い関連の史跡を紹介です。
川井城(八千矛神社)
天正年間(1575頃)金窪城主斉藤定盛の弟、基盛が金窪城の支城として築いたと云う。
天正10年(1582)の神流川の戦いで金窪城と共に川井城も滝川一益に攻められ落城。
江戸時代に櫓台跡に摩利子天が祀られ、現在は八千矛神社と呼ばれている。
櫓台

摩利子天が祀られている当時の櫓台。
残念ながら、遺構として残っているのは此処くらいの物。
すぐ南を川が流れており、天然の堀をしていた可能性が。
堀跡

縄張り図と見比べると、堀跡はこんな感じで埋められ、道路になってました。
四郭から構成されているみたいですが、みんな宅地や農地になってます。
軍配山古墳
古墳時代初期に造られた円墳と想定され、銅鏡を始め出土した遺物からかなりの豪族の墓であると推定されている。
天正10年(1582)神流川の戦いで滝川一益が、此処に本陣を置いて采配を振るった事から、軍配山と云われる様になったと伝わる。
遠景

戦の時に古墳が陣城に使われる事はよくあるようですね。
中には高屋城みたいに、城郭其の物になった古墳もありますが。
軍配山より金窪原を眺むる

古墳の上から、金窪城方面の眺め。
周りは真っ平らなので、ホントに眺めが良いです。
滝川一益も此処に登って、同じ風景を見たかと思うと、わくわくしますねえ(^_^)
首塚八幡宮
天正10年(1582)の神流川の戦いで、北条軍が敵の首級を実験し、此処に首級が埋められたと云う。

此処の小字名は、首実検した場所に因んで実見塚と云います。
県道に案内標識があるので、分かりやすい。
胴塚稲荷
元々は円墳であるが、天正10年(1582)の神流川の戦いの戦死者の胴を此処に弔ったと云う。

こちらは胴体を祀った所ですが、古墳の上に更に土を盛ったんだろうか?
首塚八幡宮の案内標識のすぐ近くにある美容院と、右隣の民家の間を入った裏にあるので、分かり辛いです。
他にも藤岡市栗須の膳棚は滝川軍の兵糧を用意した所、同市下栗須から神大塚に至る馬堀と云う用水路は滝川軍が馬脚を冷やした所の伝承が残ってます。
同じく藤岡市の中栗須・森・立石には滝川と云う小字名があり、滝川軍の陣所であったそうです。
参考文献:上里町史 通史編 上巻、日本城郭大系4
本日は此れ切り。
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Posted at
2010/04/02 22:31:41