![みん友の諸兄と行った松井田城 本丸・二の丸・補陀寺編 みん友の諸兄と行った松井田城 本丸・二の丸・補陀寺編](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/019/794/773/19794773/p1m.jpg?ct=cf62812e6eaa)
さて、
松井田城後編は「り」の大堀切を挟んで西にある、大道寺氏時代に拡張が行われた郭群です。
こちらには、後北条氏の築城術が見られるので、安中氏時代とは、確実に築城時期が異なる様です。
安中氏時代には、最大6、700人程度の籠城しか出来なかったのが、改修により最低2,000人の規模となり、後北条氏の重臣の居城に相応しい城となりました。
ぬ 本丸櫓台
![](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/mybbs/000/001/876/661/1876661/p1.jpg)
本丸の北東部には櫓台があり、現在は虚空蔵堂が建てられてます。
写真は、寅年生まれのうらん4989さんが武運を祈るの図。
南東にも櫓台があり、此処には坂虎口もあります。
る 大堀切 其の参
![](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/mybbs/000/001/876/663/1876663/p1.jpg)
本丸と二の丸は、安中郭と同様に大堀切によって切られています。
北に下ると、扇子状に広がって郭を形成し、「た」の大手門に繋がります。
を 馬出し
![](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/mybbs/000/001/876/665/1876665/p1.jpg)
二の丸と北尾根、南の禅谷に対する馬出し。
当時は、大堀切に橋が架かったいたと想像されます。
二の丸に面した堀切が、本丸側の堀切より浅いのは、馬出しの常法なんだそうな。
ひとつ勉強になりました(^_^)
わ 二の丸土塁
![](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/mybbs/000/001/876/666/1876666/p1.jpg)
二の丸の北面には、此の城には珍しい土塁がありました。
でも、そんなに高いものじゃないです。
本丸と二の丸は広いので、此処には結構兵が置けそうです。
か 二の丸櫓台
![](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/mybbs/000/001/876/667/1876667/p1.jpg)
二の丸西部にも櫓台が。
現在は櫓台の代わりに、NHKの共同アンテナが建ってました。
よ 連続堀切
![](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/mybbs/000/001/876/669/1876669/p1.jpg)
二の丸の西には、数条の堀切が連なってますが、こんなの初めて見ました。
二の丸との高低差がかなりあり、斜面も急なので、西側から攻めるのは、かなり難しそうです。
北の枝尾根の基部にも、同様の堀切があります。
た 大手門跡
![](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/mybbs/000/001/876/672/1876672/p1.jpg)
大手門跡には、松井田城唯一の石垣が残ってました。
扇子門とも呼ばれ、梅ヶ谷津の最奥部にあたり、水源を守る重要な虎口です。
れ 竪堀
![](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/mybbs/000/001/876/674/1876674/p1.jpg)
本丸北の尾根筋には、数条の堀切があり、西へ竪堀となって下って行きます。
続いて、大道寺政繁の菩提寺で、居館でもあった補陀寺曲輪。
補陀寺
応永年間(1394~14228)創建の曹洞宗の寺院。
天正10年(1582)大道寺政繁が松井田城主となると、政繁の居館となり、また自らの菩提寺として定めた。
同18年(1590)の小田原の陣で、松井田城に籠城した政繁は降伏し、転じて先鋒を務めるも、豊臣秀吉の命で川越城で自害させられた。
現在は、政繁のお墓がある。
そ 本堂
![](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/spot/000/000/530/204/530204/530204.jpg)
境内は奇麗に掃き清められ、本堂もなかなか立派なお寺です。
背後の尾根筋にも、築城されてますが、今回は行きませんでした。
つ 山門
![](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/mybbs/000/001/876/677/1876677/p1.jpg)
補陀寺曲輪は、本堂のある上段と、墓地の下段の二段に分けられます。
南面には、以前は堀があったそうで、新堀と云う地名が残ってます。
ね 大道寺政繁のお墓
![](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/mybbs/000/001/876/679/1876679/p1.jpg)
本堂の西に、大道寺政繁のお墓があり、手を合わせて来ました。
政繁は、降伏までは仕方が無いとしても、晩節を汚してしまいましたね。
降伏後は、豊臣勢の先鋒として先日まで主の城を道案内し、命だけは助かると思いきや、秀吉の命で自害させられてしまった訳ですから。
見通しが甘くて、名と命両方を失ってしまいました。
参考文献:日本城郭大系4、群馬の古城
本日は此れ切り。
ブログ一覧 |
歴史を行く | 旅行/地域
Posted at
2010/09/26 11:58:40