川田館の次は、武田信虎・信玄・勝頼三代にわたり、武田氏の居城となった躑躅ヶ崎館周辺に向かいました。
とは云え、昨年家族旅行で訪れているので、躑躅ヶ崎館・甲府城はパス。
興味がある方は、此方をどーぞ。
古府散歩 躑躅ヶ崎館
古府散歩 甲府城
躑躅ヶ崎館を中心とした支城郡は、こんな感じ。
躑躅ヶ崎館周辺
躑躅ヶ崎館を横目に向かったのは、躑躅ヶ崎館の詰めの城、要害山城です。
要害山城
永正17年(1520)に躑躅ヶ崎館の詰めの城として武田信虎が築いた。
翌大永元年(1521)、駿河今川氏の福島正成が甲斐に侵攻して来た為、武田信虎の正室大井氏が要害山城に逃れ、此処で武田信玄が生まれたと云う。
城番は、駒井氏が代々つとめた。
武田氏が滅びた後も、加藤光泰が修復した事も記録に残っており、慶長5年(1600)廃城となった。
要害山城に登るにあたって、車を積翠寺に停めさせて頂いたので、此方も紹介します。
積翠寺
鎌倉時代の創建で、境内の巨石から泉が湧き出ていた事から、石水寺と呼ばれていたが、後に積翠寺と改められた。
大永元年(1521)、駿河今川氏の福島正成が甲斐に侵入した際に、武田信虎の正室大井氏が此処に逃れ、武田信玄を産んだと云われ、其の時の産湯をくんだ井戸が残っている。
信玄公産湯の井戸
本堂の裏に、武田信玄の産湯をくんだと伝わる井戸が残ってます。
ところで、要害山城でも武田信玄は産まれたと伝わっており、実際はどっちなんだろう?
ホテル要害の入り口に要害山城への登山口があり、道もハイキング用に整備されているので登りやすいです。
い 竪堀と竪土塁
30分ほど歩くと現れました、竪堀です。
写真だとただのヤブですが(^_^;)
掘られた土は外側に盛られ、竪土塁になってます。
ろ 第一の門
大手から主郭に向かうの虎口には八つの門があります。
此処から、実質城に入って来た感じですかね。
は 第二の門
第一の門を過ぎると馬出しで、直角に向きを変え、第二の門に向かいます。
こんな感じで、城内は何回も方向転換をしなくてはならず、上から飛び道具による攻撃にさらされるはめに。
第二の門の先は、武者溜まりになります。
に 不動曲輪
幾つかの曲輪を超えると、不動曲輪があり、其の名の通り不動明王が祀られてました。
ほ 諏訪水
北に廻ると、諏訪水と呼ばれる井戸が残ってます。
他にも井戸はあった様ですが、埋もれてしまっている可能性が高いそうです。
へ 第三の門
此処の門址は、他のと比べ石積みも整然としていて立派な物。
武田氏の其れではなく、加藤光泰による改修の可能性が高い様です。
と 第四の門
此処は、坂土橋と枡形虎口だそうですが、枡形と云うのはよく分かりませんでした(^_^;)
此の後、本来であれば第五の門へと続くのですが、登山道の整備により其方へは行きません。
なので、第五の門はヤブと化してました(^_^;)
長いので、後編へ続きます。
参考文献:日本城郭体系8、戦国武田の城、ドキュメント戦国の城
参考文献:
余湖くんのお城のページ
本日は此れ切り。
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甲州新旧武田の城 | 旅行/地域
Posted at
2012/05/06 23:20:36