
【はじめに】
これから数回に分けて、
(自分の)痛車が出来るまでについて書いてみようかなと。ほら、
DRiViSiONも発足したことだし。
この記事は、
「車はこんなに楽しい!!」 DRiViSiON 始動!!について書いています。
カーライフを楽しむってことで、車の運転についての楽しさ、車の性能についての楽しさ等は雑誌の発起人の方達で盛り上がると思うけど、
”痛車”の分野について多くを語れる人はそんなにいないでしょ?w
いやらシーマ本みたいにチューンがすげぇ!とか内容が充実してるわけじゃないけど。端的に言うと
「痛車乗り」って自己顕示欲が強い人多いから語りたいんだよねw でも、自分はベシャリが下手なので文章にしてみました。ぶっちゃけ
ニコニコ超会議での初見さんに向けてのネタ仕込みっす。
ついでに言うと他の超会議参加者への牽制っす、というか主に俺が聞いてみたいんでブログ書いてw
・痛車にしたいけど今一歩勇気が出ない
・痛車ってどうやって作ればいいの?どこに頼めばいいの?
・痛車ってどれくらい掛かるの?
・痛車にしたきっかけは何だったの?
・痛車に使う著作権ってどうなってるの?使用許可ってどうやってとるの?
・痛車にしてよかったこと、悪かったこと
・痛車にした当時の心境と現在の心境(気持ちの変化的な)
おおよそ
“痛車”という存在に少なからず興味を抱いている人にとってはこのあたりがオーナーに聞いてみたい気になることじゃないですかね?でも、なかなか聞く機会自体もないだろうし、こっちも色々聞かれても全部即興で答えられる自信がないので、読んでもらえれば多少は解るようにしていきたいと思う。
【1】
『人に歴史あり』と言ってね、こんな俺でも色々あったわけですよ。あ、別にすることないからこんなブログ書いているわけじゃありませんよ? なんかニコ動で
【重音テトビートの中の人】が痛車が出来るまでの過程をあげてたのを観て
、「これは面白い!」と触発されたってわけ。というか、ビートの人も
2009年の痛GでZ4亞北ネルに強烈に影響受けてたんだね~…実は俺もだ。あの2009年の痛Gは色々衝撃だった。今にして思えば、痛G見学に行こうと思わなければ、果たして今の痛車生活はあったのかどうか…多分ないな。
改めてこうして文章にして当時の自分を振り返ってみても、よくお台場まで見学に行こうと思ったなと自分でも驚きだよ。だって、あの時は今ほど友達が大勢いたわけじゃないし
(確かみん友さん10人くらいしかいなかった。それも全員逢ったことがない)、ましてや
高速1,000円でもなかったし、唯一
レオくんと
長ちゃんと
holoさんと、
旬ちゃんに、
「痛G会場で逢いましょう!」
とみんカラのメッセージを送ったのみ。素性もわからない、ネットのみでの繋がりの人と逢って話をしようなんて、引き篭りオタクだった俺には一大決心だったと思う。それも、みんカラを始めてからわずか1カ月後のことだったし。そう思うと、2009年は自分の周りというか、自分自身の環境が激変したまさに人生の転換期ともいえる年だったと思う。結局、holoさんとは今でも逢えずじまいで、旬ちゃんは
当時高速の追い越し車線でハザード炊いて合図したのみ…後に
”痛車じゃぱん”というイベントで逢うことになるわけだが、それはまた別の話。
そして時は過ぎ、痛車を始めたことで色んな人との交流が出来たわけだけど、あの時に東京に行くことがなければ、そのこと自体もなかったことになってたと思う。痛車をやってなくても人との交流はあったとは思うけど、それはきっと今とはまた違った形の付き合い方だっただろうし。
よく一般の人?に、
「なんで痛車やろうと思ったの?」
とか、
「痛車やってて楽しい?」
とか、
「車もったないなくない?つーか、親泣かすなよ…」
とか、
「つーか、キモい。事故ればいいのに」
とか、あんまり好意的な意見は聞かされたことはないんだけども、んーなんだろう…ぶっちゃけ正直に今の気持ちを言えば、
「昔ほどの刺激はなくなったかな。痛車も別にやってもやらなくてもどっちでもいいし。昔はよく痛車イベントと聞けば遠方まで見学にも行ったけど、最近では写真すら収めないことから痛車に対する熱は冷めてきているのかもしれない。」
でも、やっぱりなんやかや言っても痛車というのをキッカケにして出来た交流はお金には代え難い自分にとっての宝物なんだよね、カッコつけて言っちゃうと。だから、痛車やってて楽しいかと言われれば楽しいと答えられるし、車もったいないと言われても車は所詮道具。俺にとっては自分を取り囲む今の環境を失うことのほうが大きな損失だし、他人から見たら無駄に車にお金かけてるように見えても、俺にとってはある意味では自分の人生を潤すための
“投資”なんだよね。だから勿体ないとは思わないし、無駄に使ったとも思わない。
物事の真理を言うなれば、車なんて別に無くても生活は出来るし、別にアニメ絵貼ってなくても車は動く。だけど、そんな質素倹約生活は楽しくないんだよ。そんなのは
“ただ生きている”だけであって
“活きている”とは言えないんじゃないかな。そもそも生きていく上で趣味にお金を使うこと自体が
“無駄”なわけだし、上でも述べたけど
“無駄”を
“投資”と置き換えて考えてみたら、それは自分に取って本当に
“無駄”だったのか?とも思えなくない?
ちなみに、なんで痛車やろうと思ったかっていうのは…うまく言えないけど、痛Gで刺激を受けて
「自分でもやってみたい!自分を代えてみたい!」と当時の俺は思ったんじゃないかね?多分。なにせ3年前の決心だったんで、タイムマシンで過去の自分に問い質してみないと本当のところはわかりません。大体痛車乗りのほとんどが一様に、
「なんでだろう?」
と、質問に質問で返されるタブーな内容だと思うよww
そして、親泣かすなよっていう意見に対してはホントすみません。これだけは自分の我儘を優先した親不孝者だと自分でも自覚してる。実は今だから暴露出来るけど、当時痛車にしようと業者にステを発注した時は本当にお金が無くて、だけどもどうしてもやりたくて、業者に相談して分割払いにしてもらったんだよね。多分今お願いしてもダメだろうけど。でも、さすがに額が大きい
(○○○万円だものね…)ので保証人を立ててくれって言われて、親父を保証人にして誓約書を交わして事に及んだってわけ。実印押してあるので法的に正式な誓約書として有効なものだったんだけど、今でも大事に取ってあって、色々何かに負けそうになって気持ちが凹んだ時に時々取りだしては見つめて、当時の情熱やら苦労を思い出しては、気力を奮い立たせてるんだよね。
あの時に比べたらなんてことない!あの情熱に比べればまだまだ努力が足りない!ってね。
これがその誓約書と支払い明細書(一部)


おまけの企画書。というか
厨二病患者ですかコレww 当時の俺は若かったんやなぁ…自分で今見ても恥ずかしい。タイトル獲得とかデカイこと書いてるし、熱意を理解してもらうことってどこの福○工務店だよw まーね、夢見てたんすよきっとね。自分を代えたいがいきなり雑誌に載りたいだなんて飛躍しすぎだと思うけど。結果はご承知の通り、
「来年こそは痛車で来る!」という公約は果たせた2010年だったわけだけど、2009年の時点で既にフルラッピング痛車が登場しており、所詮二番煎じに過ぎなかった俺の車は話題どころか雑誌の掲載にカスりもしなかったっていうね。そして、昨今の痛車イベントはフルラッピングが当たり前のような雰囲気で、何か目新しい物を求めている目の肥えた観衆には既に飽きられてきており、
レイヤー×痛車などのコラボ企画でなんとか目を引こうという過渡期に入ってきているのかもしれない…。
第2回に続く
Posted at 2012/04/01 14:25:56 | |
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