2010年06月16日
今日は少しだけいつもと違ったブログです・・・・。
先日、私の祖母が他界して8年経ちました。
私の両親は共働きで、兄とも年齢が離れていた為、幼少の頃は祖母に育てられていました。
祖母は厳しくもあり、優しくもあり、とても寛容な人でした。
反抗期の時期でも、親には反発しても、なぜか祖母の前では素の自分を出せ、
心の拠り所になってました。
高校の時、痴呆が発症し、深夜徘徊が始まり、また、同じことを何度も話すようになりました。
あまり気遣うことが苦手な私でしたが、そんな祖母の話を真剣に聞くようにしてました。
ある日の夜、祖母と二人でいると突然泣き出したんです。
周りの人から、愚弄されていると言い、私の胸元で泣き崩れたのが初めて見た祖母の涙でした。
自分自身、痴呆と分かっているが故、やるせない気持ちが一気に放出してしまったようです。
大学の時には痴呆の進行度が増し、私の母親(我が子)の名前も思い出せず、母親を違う名前で呼ぶようになりました。
30年くらい前の記憶に遡って話するようになったんです。自分はまだ30歳だと・・・。
母親も切ない気分になっていたと思います。
そんな母親を見るのも苦しかったのを今でも覚えています。
それでも何故か私の名前だけは、最後まで本名で呼んでくれてました。
見舞いに行くたびに手を握り、話をして僅かな時間でも祖母の近くにいました。
私も社会人になり実家から遠かったせいもあり、見舞いに行く頻度が減っていく中、祖母の体に癌が蝕んできたのです。
ある日、倒れたとの連絡があり、病院に向かいました。その時は一命を取り留めましたが、先生より余命半年と宣告されました。
その後、数回意識不明の状態になりながらも、奇跡的に回復し、半年はおろかその年を越えました。
痴呆が進み、既に喋れない状態まで衰弱してましたが、宣告を受けたあと驚異的な回復を見せ、倒れることはありながらも、その都度何とか持ちこたえてくれました。
そんな状態を数年、倒れては意識を取り戻すを繰返し、その都度見舞いに行ってましたが、2002年のこの時期、丁度、日韓ワールドカップが開催され、私は大阪に旅行に来てました。
その旅行の中日に再び祖母が倒れたと連絡が入ったのですが、その時の観光スケジュールを考え、
私はもう一日(最終日まで)滞在し帰る事に決めました。
心の中で、多分また回復してくれるだろうと自己都合な考えを持ってしまったのです・・・。
最終日の昼、再度連絡があり、祖母の訃報を聞きました。
私は自分の滞在の判断をとても後悔し、取り返しのつかないことをしてしまったとかなり落胆し号泣しました。
あれだけ祖母を慕ってたはずなのに、なんて愚かなと自分を戒める気持ちしか出てこなかったのです。
帰って祖母の顔を見るまで生きてて欲しいと願ってました。
そんな祖母の死に際に付き添えなかったこともあり、今は父親が病気を患っているので、出来るだけ見舞いに行くようにしています。
父親もここ数年、祖母と同じように倒れては回復を繰り返し3年が経ちました。
幾ら祖母に育てられたとはいえ、両親は生みの親。生きている間に今までかけた苦労を少しでも孝行出来るようにと極力触れ合う時間を持つようにしています。
また同じ後悔をしないように・・・・。
写真は大学の時に祖母がくれた蛇の殻です。
これでも私の大切な宝物です。
テープで綺麗にパウチしてくれてて18年経っても綺麗なまま。
今も財布の中に入れて携行しています。
今日財布の中を整理してたら、カードの間から出てきたので、ふと回帰してしまい
ついこんなセンチなブログを書いてしまいました・・・スミマセン。
纏まりが無く、自分の文章力の無さが恥ずかしい・・・
国語苦手です・・・
最後まで呼んでいただいた方ありがとうございました。
明日からまた普通のくだらないのに戻ります(* ̄m ̄)プッ
Posted at 2010/06/16 22:23:14 | |
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