『世界最速のインディアン』
21歳──<インディアン>という名のバイクと出会う。
63歳──生涯の夢<世界最速>に初挑戦。
以前に観たのですが、先日また観ました。
やっぱりいいですね~!
車好きでなくても良い映画だと思いますが、車好きなら共感するところも多いかと!
もしまだ観てない方はお勧めです!
*画像は実際のハーバート・ジェームス・マンロー
===ネタバレ注意!===
1960年代、ニュージーランドの小さな町。
小さなガレージ小屋に独りで住む63歳のバートは朝早くから、爆音を轟かせる。
少し近所迷惑なこのバイクは、自ら改造した1920年型インディアン・スカウト。
棚には、たくさんの使ったエンジンパーツやカップが並ぶ。
『スピードの神への捧げ物』として。
夢は、当時すでに40年も昔の愛車で、最高速の聖地ユタ州ボンネビル・ソルトフラッツで世界最速記録に挑むこと。
しかしすでに60歳を過ぎ、年金生活で渡米費用もままならない。
狭心症という心臓の持病で、医者からはバイクに乗ることも禁止される。
「こういうマシンで走ることは5分が一生に勝る。一生より価値ある5分間だ。」
「夢を追えない人間は 野菜と同じだ。」
変人で無頓着なところはあるが、60歳を越えても少年のまま夢を見続けるキラキラした心。
「リスクを恐れるな。それは人生のスパイスになる。それが“生きる”ということだ。」
家を抵当に入れ銀行から借金してやっと資金を捻出し、聖地ボンネビル・ソルトフラッツへの目処がつく。
しかし誰も本気で彼の世界新記録など信じておらず、唯一信じてくれたのは、隣家のトム少年だけ。
バイククラブの仲間は口では応援しても、見送りにも現れない。
港へ向かう途中、バートを馬鹿にしてた若いライダー達からの餞別が。
オカマのモーテル従業員、中古車屋のオヤジ、先住民の男、農場の未亡人・・・
みんなが、愛すべきヤンチャおやじバートに惹かれて力を貸す。
色んなトラブルに見舞われながらも、なんとか聖地ボンネビル・ソルトフラッツへ。
「ついにホーリー・グラウンド(=聖なる地)にやってきてしまった……」
しかし、何も知らないバートは出場登録もしておらず、マシンは危険で整備不良、年齢制限オーバーと・・・
「人間の一生は草に似ている。春が来ると元気に伸びて、中年を迎えて実り、秋風が吹くと枯れ尽きてもう生き返らない。人間も草と同じさ、死んだらそれで終わり。」
だからこそ、狭心症を抱えながらも禁止されたバイクで走る。
ブレーキもパラシュートも防火服も無く、まさに愛車に命を預けるバート。
賞金は無く、ただ世界最速に挑戦する場で。
「25年間願い続けた夢」
を叶えるために。
最高速アタック時には、自分と共に狭心症の薬、ニトログリセリンを愛車にも。
それは自分と愛車の命がもってくれとの願いでしょうか・・・
そして・・・
「顔にシワはあっても、心は18歳。」
カッケーオッサンです!
こういう作品を観て、バイクや車に興味を持ってくれる方が増えるといいッスね!
(*∩∀∩)v
《付録》
ハーバート・ジェームス・マンローは、実際に台所用品やガス器具、鉄パイプなどもマシンに使ったり、2気筒エンジンをバートオリジナルの4気筒エンジンに改造したり、バイク関連のシーンはかなり忠実みたいですね。
『世界最速のインディアン』
2005年のアンソニー・ホプキンス主演作品。
1000cc以下のオートバイの地上最速記録保持者バート・マンローの実話に基づいた映画。
(脚色が加えられておりノンフィクションではない)
「ハーバート・ジェームス・マンロー」
(1899年3月25日-1978年1月6日)
ニュージーランド、インバーカーギル出身のライダー。
1915年
最初のオートバイを買う。
1919年
サイドカー付きの「サイクロ(Clyno)」を購入、サイドカーを取り外し地元のバイクレースで速度記録を次々に塗り替える。
1920年
21歳のときに生涯を捧げる恋人、1920年型中古のバイク、インディアン社の「ボーイスカウト」に出会う。
1927年
フローレンス・ベリル・マーティンと結婚。
1925年
25歳、オーストラリアに移住し、シドニーとメルボルン近くのサーキットでレースに明け暮れる。
1929年
大不況になり、スポンサーつきのレースが開かれなくなりバートと妻のベリルは2人の娘を連れて、ニュージーランドのインバカーギルに戻る。
後に子どもは4人(ジョン、ジューン、マーガレット、グウェン)に。
バイクのことしか頭にないバートは、仕事を辞めて車庫にこもり、バイクの改良に明け暮れる。
妻に愛想をつかされて別れることに。
1940年代
オーストラリアのロードレースに登場、数々の新記録を打ち立てる。
1960年代
映画
「世界最速のインディアン」の舞台となります。
1962年
アメリカのソルトレイク・シティ「ボンネビル・スピードウィーク」
850cc エンジンで、時速288km (時速178.971マイル) の世界記録樹立。
1963年
2年目より、バートのチームはアメリカ中から集まったボランティアで構成。
1967年
920ccにエンジンを置き換え、950ccの部門でも183.586マイル(295.44km)記録を達成。
公式速度記録、時速190.07マイル(約305.8km)を片道で記録。
現在でもインディアン・モーターサイクルでの1000cc以下世界最速の公式速度記録。
この年、インディアンの後ろ半分が、魚の尾のようにぐらつく現象が起き、バートは均衡を保つために、体を起こした。
時速300キロの風が、ゴーグルを吹き飛ばし、ものを見ることができなかった。
このときに記録した、非公式の速度記録が331km(205.67マイル)
(1973年モーターサイクル・ニュージーランド誌)
1978年、1月6日にインバーカーギルにて死去。78歳没。
2006年、アメリカモーターサイクリスト協会の殿堂入り。