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ぴーすけのブログ一覧

2013年04月08日 イイね!

ご近所徘徊 17 「河口山 宝池院 法蓮寺」

ご近所徘徊 17 「河口山 宝池院 法蓮寺」今回も定番のお寺の話題なのですが、堅苦しい歴史物ではありません。

こちらは八王子でも古くからあり歴史あるお寺のようなのですが、最近違う意味でにわかに話題となっております。



FUNKY MONKEY BABYS(ファンキー・モンキー・ベイビーズ)
私のみん友さん(私も含めて)の年代には馴染みが薄いかもしれませんが、「ファンモン」とも呼ばれる3人の音楽ユニットです。

そのファンモンですが、ここ八王子が地元で今では観光大使にも任命されてるほどです。
勿論楽曲にも八王子を題材にした歌もあります。


八王子では昔はユーミン、ちょっと前までは北島三郎といった感じでしたが、今ではすっかりファンモンが定着しております。
因みに市内を走るバスにはこんなラッピングバスも走っております。


そんな人気絶頂のファンモンですが、そのメンバーの一人“DJケミカル”というファンからもメンバーからもマスコット的に扱われてた彼がこの度家業を継ぐため脱退する事になり、それと同時に今年の6月のドーム公演をもってファンモンも解散する事となりました。
上記のラッピングバスも車内アナウンスはDJケミカルさんが各停留所を読み上げてくれます。


その家業というのがこちらのお寺でして、これから本格的に住職になる準備をするとの事です。




そんな彼らのラストシングルです。


八王子としては観光大使といいラッピングバスといい、久々に盛り上がった感があったのに残念ですね。

次はタッキーと高橋みなみに頑張ってもらいましょうか(*´▽`*)
Posted at 2013/04/08 05:05:11 | コメント(8) | トラックバック(0) | ご近所徘徊 | 日記
2013年02月15日 イイね!

ご近所徘徊 16 信松院

ご近所徘徊 16 信松院三谷幸喜監督最新作『清須会議』で若手女優の剛力彩芽さんが「松姫」役を演じるようです。

そして八王子にはこの「松姫」の名前がついた物が数々あります。
例えば「松姫峠」や開通目前の「松姫トンネル」。
お土産では「松姫もなか」なんていうのも八王子では有名です。


この武田信玄の娘「松姫」が高遠城に攻め入る織田軍から幼い姫達を連れて逃げ辿り着いたのが、ここ八王子でした。

その後、武田家を滅ぼした織田信長・信忠が本能寺の変で亡くなり、その年の秋最初に逃げ入った金照庵から心源院に移り、出家して婚約者でもあった織田信忠をはじめ、武田家一族の人たちの冥福を祈りました。
尼になって名前が「松姫」から「信松尼」に変わります。「松姫」22歳のことです。
信松尼の「信」は、信忠の妻であるという意味が込められていると伝えられています。



心源院で8年間の修行をつみ、天正18年(1590)所水の里に移り住み、尼としての生活を送りながら11・12歳になった3人の姫達を育て生活するため、朝から晩まで働きました。収入は寺子屋で近所の子供たちに読み書きを教えたり、織物を作ることから得ました。
もちろん、織物はカイコを育て、糸をつむぐことから始まります。これらの松姫の織り方が、八王子の織物の発展につながったと言われています。



かつて武田信玄につかえていた大久保長安は「松姫」が八王子にいることを知り、彼女のために立派な草庵を贈りました。
また天下統一を果たした徳川家康も折に触れ消息をたずねていたとも言われています。
元和2年(1616)、「松姫」は56歳で亡くなりましたが、生前の願いが叶い、この草庵はお寺にされ、「信松院」と名付なづけられました。



このお寺には、松姫のお墓、江戸時代の中頃に作られた木造の松姫坐像、日本最古の木造の軍船模型があります。この軍船模型は東京都の指定している文化財になっています。
また、毎年7月には「ほおずき市」がおこなわれ、八王子の夏の風物詩になっています。





「松姫」の存在は武田家の旧臣の多くからなる八王子千人同心たちの心の支えともなったそうです。
そして松姫のお墓の周りには武田家臣の子孫(千人同心)が寄進した石柵が姫を守るが如く囲っております。
Posted at 2013/02/15 07:12:27 | コメント(6) | トラックバック(0) | ご近所徘徊 | 日記
2013年01月23日 イイね!

ご近所徘徊 15 八王子市田町(たまち)

約3ヶ月振りのシリーズ物であります。

八王子に引越してきてから何度となく通ってた道なのですが、この場所と通る度にずっと違和感を感じていました。



その違和感というのは、私がこの通りを利用するときは赤矢印の方向でよく通るのですが、この場所に無駄な広い通りが交差してます。
矢印の通りはそこそこ交通量も多く、しかも停止線を見ても解るように道幅は5mそこそこで歩行者も多くクルマのすれ違いがやっとなぐらいの細さです。


この交差している太い通りを行くと、ご覧のとおりクルマの行き来は殆ど無く閑散としております。
最初の頃は都市計画で頓挫した道路かと思っていたのですが、どうも♂の本能と言いましょうか。。。(^^;
1枚目の画像の焼き鳥屋の家の造りが、昔の黄金町や町田や堀ノ内にあった小料理屋に似てるような気がしてて、気になっておりました。



このを通り進むと僅か150m程行ったところで、またこのように道が狭くなっています。


調べて見るとやはりと言いましょうか。
ここが昔「八王子遊郭」のあった場所でした。
そしてその八王子遊郭とは八王子市に1958年(昭和33年)4月1日の売春防止法施行まで存在した遊郭の事でまたの名を田町遊郭とも呼ぶようです。


四角で囲まれた場所が「八王子市田町」という地名です。
隠語で赤線のことを「田んぼ」と言いますが、正しくここもそのような場所だったようです。
浅川を背に3方を元横山町3丁目に囲まれてると言いましょうか、はたまた隔離されてた場所だったからでしょうか。

八王子遊郭は1897年に当局によって指定され正式に認められてた場所です。
東京では吉原が今でも有名ですが、ここ八王子は吉原と共に東京で認められた2つのうちの1つと聞いた事があります。
八王子遊郭はこの大通りの東側に大門を備え、堀に見立てた小さな側溝を巡らせてあったそうです。


遊郭が廃止されて以降宅地化が進み、今ではすっかり住宅街と化してしまいましたが、先の大戦における八王子大空襲でも奇跡的に戦火を免れたこの地には当時の遊郭の面影を残す建物も数件ではありますが残っております。














因みに大通りの西側には性病検査のための警視庁管轄の八王子病院というのも存在してたそうですが、いまでは現存しておりません。
Posted at 2013/01/23 22:08:23 | コメント(10) | トラックバック(0) | ご近所徘徊 | 日記
2012年10月09日 イイね!

ご近所徘徊 14 新撰組のふるさと②

ご近所徘徊 14 新撰組のふるさと②今回は先日徘徊した「日野宿本陣」と一緒に見学してきた場所です。

場所は本陣と同じ街道沿いに面する「八坂神社」



ここ八坂神社は牛頭天王の神像を勧請したのが始まりといわれています。
寛政12年(1800年)に再建された本殿は、郷村の鎮守社としてはかなり大規模なもののようです。
しかし本殿は保護のため、現在神明造りの覆屋に納められていて、普段は観る事が出来ません。



そしてこの神社には天然理心流近藤周助の門人達が安政5年(1858年)8月に剣術上達祈願の額を奉納したことで知られおります。
この剣術額には門人の筆頭に井上松五郎、続いて日野宿本陣当主の佐藤彦五郎、中程には井上源三郎など日野宿の剣士23名と、末尾には客分として沖田惣次郎(総司)、嶋崎(近藤)勇の名が並んでいます。
しかしこの中には奉納の翌安政6年(1859年)に入門したと言われている同じ日野出身の土方歳三の名はありません。

この奉納額もやはり普段は一般公開されておりません。
毎年八坂神社の例大祭に併せて公開されるのですが、今年は9月16日。
日曜日なので、私は未だに本殿・剣術額共どちらも観た事がありません(ToT)





鳥居と本殿に掲げられている「八坂社」の篇額は、明治7年(1874年)、佐藤俊正(彦五郎)の願いによって有栖川宮二品熾仁親王が特別に書かれたものを飜刻したものです。

公開日以外に訪れると何も趣の無いただの神社で、ここだけの見学ではちょっと寂しい気がします。
何処かと絡めて、ついでにどうぞ(^^;
Posted at 2012/10/09 09:35:58 | コメント(5) | トラックバック(0) | ご近所徘徊 | 日記
2012年10月05日 イイね!

ご近所徘徊 13 新撰組の古里

ご近所徘徊 13 新撰組の古里今日は久々の近所をブラリとしてきました。



場所は隣町の日野
まず立ち寄ったのが「日野宿本陣」です。
ここは都内で唯一残る江戸時代に建てられた本陣建物です。



日野宿は江戸日本橋から新宿・府中宿の次の宿場町であり、八王子宿の一つ手前の宿場になります。
多摩川日野渡船場の管理・運営も任されておりましたが、そもそも甲州道自体交通量は多くなく、高島藩諏訪氏・高遠藩内藤氏・飯田藩脇坂氏の3藩に限られ五街道中最も少ないと言われてます。
しかも一般的に日野宿には風俗営業がなかった為、休憩用の宿場とみなされ、ほとんどの旅行者は八王子か府中の両宿に宿泊したといわれてます。



嘉永2年(1849年)、大火をきっかけに進行する治安の悪化を憂慮し自衛の必要を痛感した当主佐藤彦五郎は、八王子千人同心の井上松五郎(井上源三郎の兄)から天然理心流を紹介され、近藤周助(近藤勇の養父)に入門し自宅に道場も開きました。佐藤彦五郎は卓越した技量からか4年後には免許皆伝をとっています。
この道場には、やがて近藤勇や沖田総司、山南敬助らが訪れるようになり、日野出身で義理の弟でもある土方歳三や同じく日野出身の井上源三郎らを交えた新選組の物語の幕がこの場所で開けられたのです。

建物は文久3年(1863年)4月に上棟され、翌年完成しています。上棟の少し前、同じ文久3年2月には徳川14代将軍家茂が上洛。その警護のために新選組の前身となる浪士組が京都へ向っています。本陣の建物の準備には10年に及ぶ歳月を費やしたと言いますから、本陣建設の槌音を聞きながら同じ敷地内にあった道場ではのちに新選組になる面々が木剣の音を鳴り響かせていたことになります。





この部屋が義理の弟でもある土方歳三が来れば昼寝をしたといわれている部屋で、訪れた女子高生などはここで寝転がり写真を撮っていくようです。



部屋から裏庭を望みます
廊下にはヒョウタンの形をしたからくり模様も



裏庭には土方歳三の生家と同じくザクロの木が。。。
多分ここのザクロも、もいで食してたのではないでしょうか。



そしてこちらの部屋が市村鉄之助が匿われた部屋だそうです。
あまり知られていませんが、この市村鉄之助は慶応3年(1867年)の新選組の隊士募集で兄の辰之助と共に14歳で入隊。兄の辰之助は両長抱として、鉄之助は土方歳三附属を命じられました。

元新撰組隊士・中島登の記録では、その後行方不明となったままとされ、また「幕府陣歿者氏名考」では、16歳で病死したとなっていたのですが、実は死を覚悟した土方の命を受け、その遺品を届けるために五稜郭を脱出し、土方の故郷のこの場所に向かったのでした。
鉄之助は命からがら3ヶ月の月日を掛けようやくここに辿り着き、遺髪や写真、辞世の和歌や手紙などを届けたそです。

その土方の手紙には
「使の者の身の上頼み上げ候」
と書かれてあったそうで、当時政府からは賊軍とされてた彼を明治4年(1871年)、鉄之助が故郷・岐阜の大垣に帰るまでの約2年間、その土方の遺言通りに彼はここのこの6畳の小さな部屋で隠れるように保護されてたそうです。



いまでは駐車場となってしまってますが
こちらが当時道場のあった場所だそうです。



日野駅近辺には、新撰組ゆかりの場所がまだまだ沢山在ります。

お近くにお立ち寄りのさいは、是非ともこちらにもm(_ _)m



Posted at 2012/10/05 22:58:45 | コメント(7) | トラックバック(0) | ご近所徘徊 | 日記

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「@HITOTSUYA 足柄ですね、ご苦労様です」
何シテル?   11/06 08:24
我が家からは朝はキジの鳴き声が聞こえ、昼は鳶が上空をクルクル、目の前の川にはカワセミが。。。 それでも私は東京都民?

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