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2011年03月26日 イイね!

被災者支援、「力になろう」と思っちゃダメ!生きる力を引き出す4つのポイント!

被災者支援、「力になろう」と思っちゃダメ!生きる力を引き出す4つのポイント!河合 薫氏のコラムより。

こういう時というのは、何を、どう書いたらいいのか、実に悩む。

 実際に被災地にいるのなら、その場で起こっていること、その場の空気、そこで感じることをありのままに書きつづることもできる。

 だが、今、私がいるのは被災地ではない。少しばかりの募金をしたり、できる限りの節電をしたり、必要最低限のものしか買わないようにしたりと、今、できることを、可能な限りやってはいるが、それだけでしかない。

 温かいご飯を食べ、暖かい寝床で寝ているくせに、「被災者のために〇×すべきだ!」などと、勝手な思い込みで発信することはやりたくない。だって、それはある意味、偽善であり、おごりじゃないかと思うからだ。

 であればとばかりに、「被災者の方たちが少しでも元気になる原稿を!」と願ったところで、実際に被災している多くの方たちが、このコラムを読める環境にあるとは到底思えない。

 もどかしい。でも、何かやりたい。自分なりに。今できることを──。

被災地にいない人に知ってもらいたいこと
 そう思うと、余計に何を書いたらいいのか分からなくて、パソコンのキーボードをたたく指が重たくなる。

 で、散々悩んだ結果、今、このコラムを読める環境にいる人、「何かやりたい」と思っている人。そういった方たちが、今後(あるいは既に)、被災者の方たちの力になるべく、手を差し伸べた時に、少しでも役に立ちそうなことを書こうと思う。

 この先、日常を取り戻すようになればなるほど、被災した方々は、いくつもの厳しい現実と向き合うことになるだろう。とりわけ今回の被災者には、高齢の方たちが多いように見受ける。この先復興していくうえで、おじいちゃん、おばあちゃんたちには、まだまだ元気に頑張ってもらわなくてはならないし、元気でいてほしいと心から願う。

 そこで、被災した高齢者の方たちに私たちが接した時に、おじいちゃん、おばあちゃんたちを元気づけるために知っておいた方がいいことは何か。これまで行われてきた高齢者と地震、あるいは強度のストレスが高齢者に及ぼす影響などの調査結果を基に、あれこれ考えてみようと思う。

 調査結果がベースになるため少々読みづらいかもしれないけれど、少しでもこの先思い出して、支援に役立てていただければ幸いです。

生きる力は若い世代よりも高齢者の方が上
 まずは、今回の震災がもたらす甚大なストレスに対処する力(=生きる力)が、高齢者と若い世代とで違いがあるかどうか、について考えてみよう。

 地震が発生してから4日後の3月15日には、大津波で壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町で、津波で流された民家から、75歳の女性が救出された。地震発生から約92時間ぶりのことだった。また、同じく大津波で甚大な被害を受けた宮城県石巻市門脇町では、9日ぶりに80歳の女性と、16歳のお孫さんが救出された。

 どちらも被災者の生存率が大きく下がるとされる「地震発生後72時間」を大きく過ぎた中での生還で、奇跡に勇気づけられるのと同時に、「高齢で体力的に本当にシンドイ中、踏ん張ったのだなぁ」と頭が下がる。

 恐らく助けに向かった息子さんや、一緒にいたお孫さんの存在が大きな支えになったのだろうが、そこで本人が「どうにかして踏ん張って生きよう。生きたい」と思わない限り、奇跡は起こらない。

 想像を絶するような困難に遭遇した時に、「どうにかして乗り越えよう。きっと乗り越えられる」という気持ちを本人が持てるかどうかは、非常に大切である。

 この気持ちは、ストレス対処力(生きる力)として何度もこのコラムで取り上げてきたSOC(sense of coherence=首尾一貫感覚)である。それは、「どんな状況の中でも、半歩でも、4分の1歩でもいいから、前に進もうとする、前向きな力」と置き換えることができ、すわ困難な状況に遭遇した時に、困難を乗り越えようと踏ん張る強さだ。

一般的には、若さ=生きる力、というイメージがあるが、実際には高齢者の方が若い世代よりも、生きる力が高いことが分かっている。

 国内の20代以上の成人男女を対象とした全国調査では、生きる力の指標でもある、SOC得点で比較した場合、年齢が上がるほど得点が上昇していることが認められているのだ(NHK日本人のストレス実態調査委員会・山崎喜比古ら調べ)。

 20代のSOC得点は40.3点、30代で41.1点であるのに対して、60代は47.3点、70代以上も47.3点で、なんと7ポイントも高齢者の方が高かったのである(満点は65点)。

 また、アメリカの独居高齢者、イスラエルの退職女性、カナダの65歳以上の高齢者を対象とした海外の調査結果でも、若い世代の得点を上回った。

 そもそもSOCは、人生上にあまねく存在する困難である人生の雨を、傘を何本も使うことで歩き抜き、雨上がりの太陽に照らされることで高められる力だ。

 草木が雨に当たり、太陽に照らされることで、幹を太め、枝を増やして成長していくように、高齢者は、長い人生の中で遭遇した数々の困難を乗り越えることで、生きる力を高めてきたのだろう。

 震災後、「戦争の時だって焼け野原だったのに、復活したんだからさぁ」と明るく笑うおばあちゃんの姿がテレビに映し出されていたが、高齢者は私たちが想像する以上に生きる力が強いのである。

ところが、生きる力を一気に失うことがある
 そんな生きる力の高い高齢者ではあるが、高齢になってから、予期せぬ甚大なストレスに遭遇すると、時間の経過とともにたちまちそれまで育んできた生きる力が失われてしまうことがある。

 不意打ちの雨はいつまでもしつこく降り注ぎ、頑丈だった枝をへし折り、太い幹にヒビを入れ、頑張ろうとか、踏ん張ろうとか、そういった気持ちを萎えさせていくのだ。

 例えば、阪神・淡路大震災の時には、仮設住宅に転居した後、高齢者の孤独死が問題になったことがあったし、高齢者が多数を占めた能登半島地震の時の調査によれば、仮設住宅に住む高齢者のPTSD(心的外傷後ストレス障害)の罹患率は21.6%と、高い割合が示されたという報告もある。

 さらに、高齢者にとって、「昨日と同じ今日がある」という状態は、大きな精神的な支えとなる。ところが、既に被災した方々にとって、もはや「昨日と同じ今日」は存在しない。

 たとえ復興が今後進んだとしても、震災前の日常を完全に取り戻せることはない。

 今はまだ、みんなで被災している状況であり、互いに励まし合いながら踏ん張ることができる。だが、多くの人が望み、みんなが整備しようとしている日常が戻れば戻るほど、「昨日と同じ今日」を失ったおじいちゃん、おばあちゃんたちにとって「いかに今後を、生き抜くか?」が最大の課題になってしまうのだ。

 つまり、大地震と大津波という、甚大なストレスを乗り越える強さを持っていたおじいちゃん、おばあちゃんたちではあるが、これからが厳しい、ある意味で本当の闘いであり、これからの“現実”の方が、今よりもしんどい時間になるというわけだ。

 では、今後に厳しい現実に直面したおじいちゃん、おばあちゃんたちが、元気でいられるために、私たちができることは何か?

 参考になりそうなのが、上武大学看護学部の本江朝美教授らが行った60歳以上の高齢者約200人を対象にしたSOCに関する調査研究だ。

 この調査では、高齢者のSOCと関連の強い項目を模索している。その結果、
 ・「自分は健康である」といった主観的健康観が高い
 ・経済状態が良好である
 ・新しいことにチャレンジしている
 ・困った時に相談できる人がいる
 の4項目が、SOCの高さと関連が強いことが示された。

 特に、「自分は健康である」と評価できる状態は、SOCと最も関連が深く、同様の傾向は欧米の調査結果でも示されている。

 年を重ねれば、多かれ少なかれ加齢から生じる症状や病に向き合わなくてはならず、明らかに体力は低下していく。それでも、「あっちこっちガタはきてますけど、元気ですよ」と思えることが、前に進もうという気持ちを後押しする。

念のため補足しておくと、主観的な健康状態とは、文字通り主観的なものである。慢性疾患を患っていようとも、毎日飲まなくてはならない薬があろうとも、「私は元気です」と言える状態を表す。

 つまり、災害の後には「メンタル面のケアが必要」とされているが、精神的なケアの前に肉体的な不安を徹底的に払拭するためのケアが必要なのだ。

 具体的には、既に報道されている医薬品不足の解消、医師の確保、加えて、暖かい住環境や満足できる食環境などなど……。

 「もう大丈夫だ」と、高齢者が思える環境づくりや環境整備にプライオリティーを置き、そのために私たちができることに取り組まなくてはならない。

「大丈夫」と言う人から本音を聞き出す
 当然ながらこういった環境づくりは、個人でできるものではなく、ほとんどは国や地方自治体に任せるしかない。

 だが、それだけで終わるわけではない。

 主観的な健康は、日常生活とともにある。これから私たちが被災地に出向き、直接被災した方々とかかわる時にも、「おじいちゃん、身体、しんどいところはないですか?」と気遣うことが肝心だろう。

 ところが、これが結構難しいのだ。

 阪神・淡路大震災の時に、毎週被災地に通った知人の話では、高齢者の多くは痛いところ、調子の悪いところがあっても本当のことを言わずに、「大丈夫」と答える傾向が強いという。「いろいろと親切にしてくれているのに、これ以上甘えちゃ悪い」といった、高齢者ならではの気遣いが、本当は大丈夫じゃないのに、「大丈夫」になってしまうのである。

 その壁を取り除くには、とにもかくにも心の距離感を縮め、おじいちゃんたちが少しでも甘えてくれるような環境をつくるしかないだろう。

 例えば、声をかけるだけでなく、実際に肌に触れてみる。世間話をしながら、肩をもんであげたり、足をさすってあげたりすると、ついついポロリと、本当に痛いところや心配な個所をこぼすことがある。先の知人も、「肩もみをしながら話をすると、身体の状態が結構分かる」と言っていた。

高齢の方を「お客さん」扱いしない
 そして、何よりも、私たちが手を差し伸べた時に、忘れてはいけないのが、先の調査で示された、「何か新しいことにチャレンジしている」という状態をつくることだ。

 力になりたい気持ちが強い時、私たちはついつい高齢者を『お客さん』扱いしてしまいがちである。

 「おじいちゃん、僕がやるからそこに座っていていいよ」
 「おばあちゃん、私がやるからゆっくり休んでいて」
 といった具合に。

 もちろん肉体的に疲れている時は別だが、そうではない時には、むしろ高齢者にも、一緒にかかわってもらった方がいい。

 「僕はこれやりますから、おじいちゃんはこれをやってもらえますか?」
 「おばあちゃん、私はこれをやりたいんですけど、やり方が分からないので教えてもらえますか?」
 などと、役割を与えてみる。

 役割があることが、すわ「新しいことにチャレンジしている」気持ちをもたらすのだ。

 以前、私がかかわった調査研究でも、「孫の世話がある」「家事をやらなくてはいけない」と、生活習慣で社会的役割を持っている高齢者は、そうでない高齢者よりも元気な傾向が認められた。

 高齢者を対象とした健康増進プログラムでも、高齢者の中から交代でリーダーとなり、そのリーダーがみんなに教えるような形でプログラムを実施した方が、精神的な健康度が高まった。

 そういえば、既に亡くなってしまわれたが、100歳の双子で人気者になった、金さん銀さんは、人気がどんどんと高まって、取材やらイベントに出席やらで、忙しくなったことで、ますます元気になり、白髪が黒くなったと聞いたことがある。髪の毛の話はホントかウソか分からないけれど、社会的な役割を持ったことで、金さん銀さんがますます元気になったのは本当なのだろう。

 いずれにしても、私たちだって「誰かに必要とされている」とか、「やるべきことがある」状態に、生きている意味を、自分の存在意義を見いだす。高齢者にとっても、それは同じこと。

 どんなに年を重ねても、「誰かの力になれる」「誰かに感謝される」ことで、生きている意味は見いだせる。人は誰かの世話になるより、誰かの世話をしている方が、誰かに優しくされるより、誰かに優しくしている方が、自分がそこにいる意味を感じることができるのである。

何か自分にできることがしたい。大きな悲しみに遭遇している人の力になりたい──。

 そういう思いが強くなればなるほど、無意識に「やってあげる」感が強まってしまうことがある。

 「ケアする人とケアされる人」、「サポートする人とサポートされる人」という関係になってしまうことは、時に「強者と弱者」という構図とも重なっていく。

 サポートされる人、ケアされる人は、「力を貸してくれてありがたい」と思う一方で、自分の無力さにさいなまれてしまうことってあると思うのだ。

 そんな時、「教えてください」「力を貸してください」「これやってください」と、頼りにされることは、おじいちゃんたちにとってもうれしいのではないだろうか。

 それに高齢者の方たちは、人生における私たちの大先輩だ。

 せっかく大先輩たちにかかわれるのであれば、大先輩に教えを請う方がいいじゃないか。おじいちゃんたちにとっては何でもないことが、私たちにとっては「すごい!」と感動することだってある。おばあちゃんたちのやり方が、私たちにとっては「カッコイイ!」と思うことだってあるかもしれない。

 私たちが「おじいちゃん、おばあちゃん、教えてください」という謙虚な気持ちを忘れることなく接することができれば、おじいちゃん、おばあちゃんたちを、むやみに無力感に陥らせることは防げるはずだ。

ただ話に耳を傾けるだけでもいい
 そして、その時には、是非とも、積極的におじいちゃんやおばあちゃんの話に耳を傾けてほしい。

 「おじいちゃんの若いころって、どうだったんですか?」といった具合に、“自分史”を好きに話してもらうのだ。

 生まれた場所、若い時の仕事、いつもやっていたこと、好きな食べ物……。何でもいいから、思い切り、話しすぎたと反省するくらい語ってもらうといい。

 どんなに無口に思える人でも、
 「私は〇×が好きなんですけど、おじいちゃんは?」
 「僕の家では昔からこんなことやるんですけど、東北ではどうなんですか?」
 などと、話しかけると、意外と話してくれるものである。

 何か話をさせようとするのではなく、おじいちゃんのことを、おばあちゃんのことを、そして、自分のことを知ってもらうために、無駄話をすればいいのだ。

 もし、そこで記憶の箱に詰め込んだ悲しい記憶を、自ら語り出すことがあったとしたら、気の利いた言葉を言おうなどとはせずに、「うん、うん」とうなずくだけでいい。

 自分の話を聞いてくれた人がいる、自分の話を存分に語ることができた。そんな経験が、つらい記憶へのカタルシス効果をもたらすこともある。

 いろいろと話せた、自分の話に耳を傾けてくれた人がいると知るだけで、深い心の闇に一瞬風が吹き込んで、少しだけ楽になるのだ。

 だからといって、おじいちゃんやおばあちゃんの苦しみが消えるわけでもなければ、悲しい思いがなくなるわけでもない。どんなに私たちが寄り添おうとしたところで、少しでも苦しみを軽くしてあげたいと願ったところで、悲しみが取り除かれることなどないのだ。

 けれど、どんなにつらくとも、「私には支えてくれる人がいる」「人のきずなの大切さを知った」「自分には信頼できる人がいる」と感じられれば、前に進む勇気を持てる。

 自分の悲しみや苦しみに寄り添ってくれた人がいる、そう思えることが、降り続く雨の傘となる。

 私たちには被災した方たちの悲しみを取り除くことはできないけれど、共に生きることは十分できる。

 今、そして、これから私たちにできること。それは『共に生きる』ことだ。

 その気持ちを忘れないでいることが、被災した方たちが一番求めていることなのかもしれない。



Posted at 2011/03/26 20:02:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2011年03月26日 イイね!

いまわれわれに力をくれる言葉とは

いまわれわれに力をくれる言葉とはこれは日経ビジネス 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明 からのコラムです。


来週は震災以外の話題について書こう、と、前回のテキストをアップした時点で、そう心に決めていた。

 私自身が地震の報道に食傷していたこともあるが、それ以上に、読者がうんざりしているだろうと考えたからだ。
 あらゆる情報源が震災一色に染まっている現状は、メディアの健全性を担保する上で好ましくない。
「ただちに健康に影響を及ぼすものではないと」
 と、保安院の人間はそう言うだろう。が、そんな保証に何の意味がある?

 ただちに、ということを言うなら、取り落としたワイングラスにだって、いくばくかの余命はある。即座に粉々に砕けるわけではない。細かく観察すれば、手を離れたワイングラスには、運動方程式に沿った長い落下の過程がある。しかも、着地に至るまでのすべて過程を通じて、グラスの形状は完全に保たれている。大丈夫、撃たれたからといってただちに死ぬわけではない。弾丸が届くまでには、なおしばらくの猶予がある。そういうことを彼等は言っている。

 記事には半減期がある。ただちにではないが、やがて無力になる。
 週刊でまわしている時事コラムの場合、通常、半減期は一週間に満たない。残念な話だが、これは事実だ。認めなければならない。

 とはいえ、テキストの断片が、半減期をはるかに過ぎた頃になって、読者の脳裏に、ふとよみがえる例が皆無なわけではない。書く者は、そういう放射性を持った原稿を生産すべく、常に全力を傾けねばならない。そういう意味で、私のような雑事を扱うコラムニストは、今回のような状況においては特に、読者の人生にただちに影響を及ぼさない範囲で、震災とは離れた、読者の気持に風穴を開ける話題を提供するべきなのであろう。

 通夜の席では黙りこんでいるのが無難だ。何かを言う場合でも、常套句を繰り返す以上の言及は避けた方が良い。生活の知恵だ。でも、誰かが話題を振らないと場が動かないこともまた事実で、精進落しの会席を支配する気まずい沈黙を破るためには、たとえば、遠縁の伯父ぐらいに当たる人物が酔いつぶれる必要がある。その、一族のうちの変わり種の、型通りの醜態を契機として、ようやく、人々は、故人の人となりについて、多少とも率直な会話を交わす機会を持つ。そういうふうにして、世界は動いている。よく似たなりゆきで、コラムニストは、ネコの首輪に鈴を付けに行く役割を担っている者だ。コラムは、鈴の音を奏でなければならない。うまく着地できた場合に限った話ではあるが。

 ……という、以上の前置きは、既にお気付きになっておられる向きもあろうが、ご明察の通り、私が今週も震災について書くことについての、持って回った弁解だ。さよう。わがことながら不本意なのだが、私は、今に至ってなお、震災に囚われている。それ以外のことが考えられない。ゆえに、他の話題について原稿を書く気持になれないのだ。

 津波が去って二週間が経過すれば、さすがに世間の空気も多少は変わっているはずだ、と、先週の今頃はそんなふうに考えていた。たとえば、スポーツ関連や芸能まわりの話題で、人々の関心を引く事件が起こっているだろうさ、と。

 実際、事件がないわけではない。
 たとえば、3月の23日に訃報が伝えられてきたエリザベス・テーラーについて書くことも不可能ではない。

 ……でも、ダメだ。
 地震でアタマがいっぱい。被災と停電と復興と放射能汚染の脅威。私の思考は、そこのところから一歩も外に出ることができない。
 なので、今週も震災について書く。どうかご理解いただきたい。

 今回の震災は、特別な出来事だ。普通の厄災なら、いつまでも囚われているべきではない。二週間後には、気分を変えるモードに入っていなければならない。でも、この震災は別だ。半月やそこいらで切り替えられるものではない。肉親の死に準じた、最大限の服喪期間を設定せねばならない。中途半端な日常復帰カレンダーは、かえって事態をこじらせるだろう。アタマの中がある程度整理されるまでの間、われわれはやはり、この未曾有の悲劇の様相について、考え続けるべきなのだ。

さて、本題だ。
 専門分野を持たない書き手は、せめて、多少なりとも知識を持っている畑で話をしないといけない。とすれば、今回の例において、私は、放射能や復興基金やプロ野球の開幕時期について語るよりも、まず、「言葉」について考えなければならないはずだ。そこに焦点を絞れば、大きな失敗はせずにすむ。失敗したとしてもただちにライター生命に影響を及ぼすものではない。即死だけが死ではない。誰もがあらかじめ死を約束されている。何を言っているんだ。オレは。

 私が注目しているのは枝野官房長官の話しぶりだ。
 彼はよくやっていると思う。
 枝野さんが最初に登場した12日午後6時過ぎの会見を見て、私はこんなメモを取っている。

・ほとんど何の内容もない情報ゼロの会見。顔を見せただけ。
・これだけ中味のない会見をして、それでも無能に見えないのは見事。
・枝野君は、「大丈夫だ。でも避難しろ」と言っている。
・「心配ないけど気をつけてくれ」という意味のことを言わされている。なんと気の毒な。
・官房長官は「詳細は説明できないけど頑張っている」「っていうか、詳細が把握できていないわけだが大丈夫なのはわかっている」「わかっているけど万が一ってこともあるから避難しろ」と言っている。すごい。
・うん。まるっきり支離滅裂だ。が、それでも堂々としゃべっている。立派としか言いようがない。

 結局、「言質を取られてはいけない」「誤解を招く言葉を使ってはいけない」という、ダブルバインドの中で何事か実効性のあるメッセージを発するためには、弁護士修行の実務の中で学び取ったディベート手法を持ち出してくるしかなかったということなのであろう。

 私などは、弁護士出身の枝野さんの一種慇懃無礼な語り口に感心した組なのだが、誰もがそう感じたわけではない。あの無表情に反感を抱く人々もいる。
「このヒト、ウソついてるよね」
「うん。何か隠してる」
「巧言令色の見本だね」
「っていうか、三百代言という言葉を久しぶりに思い出した」
「連鎖販売取引のディストリビューターとかもこういうしゃべり方するよ」

 とはいえ、当初の段階で、枝野さんの働きぶりは、多くの国民に評価されていた。
「わかったから無理すんなよ」
 という感じで。とにかく、大変に勤勉に働いていたから。信用はされていなくても、評価はされていた。

 引き比べて、菅首相は、目立たない。居ないみたいだ。
 以下は、翌13日の菅総理の会見の際に私が書いたメモだ。

・内容が無いのは仕方がない。だって、情報がないんだし、決意を述べる以上のことはそもそも無理な状況なわけだから。
・でも、それにしてもひどい。
・たった30秒で退屈させるって、これ、ひとつの才能だぞ。
・ああ、ダメだ。選挙演説にしか聞こえない。
・このヒト、喋り方のベースが街頭演説なんだね。説明でも会見でも質疑応答でもない、モロな演説。一方的に自分の宣伝したい情報だけを繰り返して、動員した支持者にのみ訴える話し方をしている。裸の王様。赤裸宰相。セミヌード官房。哀れだよ。あまりに丸裸過ぎて。
・声の張り方や、表情の作り方。言葉の選び方。すべてが猛烈に古臭い。完全な昭和弁論部トーク。どうしようもない。

 ここまでケチョンケチョンに言うことはなかった。たぶん、私は選挙演説にアレルギーを持っている。そう思って勘弁してほしい。

もう一点、目についたのは蓮舫節電啓発担当大臣のしゃべり方だ。彼女についてのメモは、時系列に沿ってかなり大量にある。一部を公開する。

・なにこれ? 顔芸? 百面相のつもり? どうしてたった3秒でも素顔が保てないの? 症状?
・要するにアレだね。表情の作り方が、高校の演劇部の赤毛芝居そのまんまなわけだ。それも新入部員の不器用な勘違いスター気取りの。
・ついでに言えば、身振り手振りがカブリモノの中に入っているヒトの演技にあまりにも似ている。宇宙怪人ゴリとか、猿の惑星とか、ショッカーとかの、両手クルクルの幼児向けオーバーアクションに。
・どうしてミュージカルみたいな声の出し方をするんだろう。
・会見をオペラだと思ってるんだろうか。
・思い出したぞ。これって、宝塚のダメな男役の発声だ。
・そう思って聞いてると、突然歌い出さないのがむしろ不自然ですね。
・歌えよレンフォー、「節電を請うるの賦」とかをさ。依頼があれば作詞するぞ。

 3人の会見を見てわかることは、かかる極限状況において、リーダーは感情をオモテにあらわにすべきではないということだ。
 為政者の表情は、本人がどういう意図を込めているのであれ、常に誤解される恐れを持っている。深読みされ、聴衆に動揺を与え、怒りや悲しみをもたらし、どっちにしても感情的な反応を呼び覚ます。かかる事態を防ぐべく、非常時にあって、コメンテーターは、つとめて冷静に、ゆっくりと、事実だけを、淡々と述べるべきなのだ。
 その意味で、菅首相の演説口調や、蓮舫大臣の百面相は落第。枝野長官の無表情の方が、まだしも見る側に心理的な負担を強いない分だけスジが良い。私はそう思う。

 とは言うものの、枝野さんについては、ここ数日、こんなパロディーが流布しはじめている。

「大丈夫?」っていうと「大丈夫」っていう。
「漏れてない?」っていうと「漏れてない」っていう。
「安全?」っていうと「安全」っていう。
 そうして、あとでこわくなって
「でも本当はちょっと漏れてる?」っていうと「ちょっと漏れてる」っていう。
 こだまでしょうか?
 いいえ、枝野です。

 ははは。長官のポーカーフェースもさすがに賞味期限が切れてきているようだ。無理もない。あの頻度でテレビに露出して、出る度に無理な弁解を強弁している以上、どんなに有能なスポークスマンであって人々に好感を持たれ続けることは不可能だ。

 枝野さんが、視聴者に向かって繰り返している「冷静に」「落ち着いて」というメッセージも、反発を買う一因になっている。というのも、「冷静に」は、目上の人間が下の立場の人間に向かって言う形式の言明で、言わば、一種の叱責だからだ。枝野さんの立場にしてみれば、これを言わないわけにはいかないのだろうが、聞かされる側が不快を覚えることは、これは如何ともしがたい。

「ヤナセ君。こ、この報告書は何だ? オレをバカにしているのか」
「ははは。課長、まあ、落ち着いてください」
 というヤナセのこの返事の仕方は、ビジネスマンとしてあるまじきマナーだ。著しく礼を失している。言葉そのものよりも状況が、だ。わが国の秩序感覚では、あわてたりビビったりするのは、下っ端の仕事というふうに決まっている。仮に上司があわてていても、部下はそれを指摘してはならない。まして忠告など、もってのほかである。

「か、か、課長。こ、この辞令はどういうことでしょうかぁ」
「まあ、落ち着け」
 これはアリ。というよりも、「落ち着け」は、原理的に下向き限定でしか使えないメッセージなのである。
 おぼえておこう。優秀な部下は課長の自尊心をくすぐるために、時にビビってみせなければならない。それでこそ可愛い部下としての十全なコミュニケーションを形成することができる。

さて、為政者の言葉が感情に曇るべきでないのはその通りだとして、では、われら市井の人間はどのような言葉をもってこの事態に対処すべきなのであろうか。

 結論を先に述べれば、私は、詩の言葉がそれに当たると思っている。国難にあって人々の心情を正しく語り、力を与えるのは、詩であるはずなのだ。

 別の言い方をすると、大人の言葉である散文や、大人の現実認識である理性よりも、子供の言葉である詩や、子供の処世である直感が、この際、モノを言うような気がするということだ。

 大人には経験がある。われわれは情報を持ち、知恵を備えている。
 だから、通常の文脈の中で起こる苦難や、想定内のトラブルについては、蓄積した世間知が役に立つ。

 ところが、今回の震災のような、想定を超えた事態には、あらかじめ用意しておいた対処法や、常識的な経験知が通用しない。
 とすれば、経験が無力である以上、想像力で対応するほかにない。
 ということは、筋道だった思考よりも、心の柔らかさに類する資質が求められるわけで、その点で、この種の予期せぬ事態には、実は子供の方が高い適応能力を示すはずなのだ。
 事実、避難所の映像を見ても、子供たちは、苦しみは苦しみとして、その中で時に笑顔をはじけさせている。
 その笑顔が、どれだけ大人たちを救っていることだろう。

 阪神大震災の折、避難所の子供たちにサッカーを教える活動をしていた神戸のサッカー選手は、
「子供たちの笑顔に救われた」
 という意味のことを繰り返し述べている。そう。こういう時は、子供に助けてもらわなければならない。

 思い出した。ぴったりの歌がある。
「ティーチ・ユア・チルドレン」という歌だ。クロスビー・スティルス&ナッシュの曲で、1971年に公開された「小さな恋のメロディ」という映画の主題歌になっている。私は45回転のシングル盤のレコードを持っていた。
 私の英語力の問題を除けても、ところどころ意味のわからないところがある歌なのだが、そういうところが、まあ、あの時代のロックミュージックの持ち味でもある。以下、大意を紹介する。

You, who are on the road,
Must have a code that you can live by.
And so, become yourself,
Because the past is just a good bye.

人生の途上にある君は、
それによって生きる「コード」を身につけなければならない。
そうすれば、自分自身になることができる。
過去はまぼろしに過ぎない。

 「コード」というのが良い。普通に翻訳すれば、「依って立つところの規範」「行動の指針」「生活信条」ぐらいになるのだろうが、ぜひ「コード」のまま記憶したい。背景に鳴っている「和音」みたいで素敵ではないか。

 次はサビの部分。

Teach your children well,
Their father's hell did slowly go by.
And feed them on your dreams,
The one they picks, the one you'll know by.

子供たちに教えてあげなさい。
父親の時代の苦しみは、ゆっくりと過ぎ去って行ったのだということを。
そして、あなたの夢を彼等に示してあげなさい。
選びとったものを通じて、子供たちはあなたを知ることになるでしょう

 この「father's hell」は、私が持っていたレコードの歌詞カードでは、"father's help"になっていた。
 それだと、「父親による保護は、少しずつ失われていく」ぐらいの意味になる。こっちの解釈も捨てがたいが、よく聴いてみると、やっぱり「hell」と言っている。father's hell 私のはまだ去っていないが。
2回目のリフレインは、子供と親の主客を正反対にして書かれている。紹介したかったのはこの部分だ。

Teach your parents well,
Their children's hell will slowly go by.
And feed them on your dreams,
The one they picks, the one you'll know by.

ご両親に教えてあげるんだね
あなた方の子供が抱えている苦しみは、ゆっくりと消えつつあるんだと
そして、君の夢で、彼等の心を満たしてあげなさい
選び取った夢で、彼等はより深く君を知ることになるだろう。

 思えば、平成に入ってからのこの20年余りは、詩という文芸が衰退の極に沈んでいた時代だった。
 私自身は、詩集を読み、詩を書くということを日常的にこなしてきた最後の世代だと思っている。いや、私の世代でも、既に遅かったかもしれない。私より5年年長の人々は、普通に詩を暗誦し、時にヘタであっても詩を書くことのある人々だった。が、私の世代になると、詩は、薄気味の悪い文学少年のための極度にマイナーな趣味になってしまっていた。

 現代では、詩は、笑いのタネにしかならない。ポエム。時代遅れの青年誌に乗っているアイドル水着写真の添え書きとして、あるいは土産物の洋菓子の取り澄ました包装紙の上でかろうじて露命をつないでいる。

 私は詩を書く少年であった。
 だから、出来不出来はともかく、20代の頃までは、いくらでも詩を生産することができた。
 それが、40歳を過ぎると、ほとんど一行も書き進められないようになった。
 ここに、何か秘密があると思う。
 人も時代も、成熟を自覚すると、詩を軽んじるようになる。
 そして、詩を軽んじる魂は、おそらく、予期せぬ事態に立ち向かうことができないのだ。

 結論を述べる。
 苦難の時にあって、われわれは詩を書くべきだと思う。
 もう一度、詩の言葉を思い出して、想像力を蘇らせなければならない。
 書くのが無理なら、他人の詩でも良いから、気に入った詩を暗誦すべきだ。
 廃墟に詩を。
 うむ。唐突かつ空々しくも聞こえかねない結論だが。コラムというのはそういうものだ。
 ただちに人生に影響を与えるものではない。
 こだまでしょうか。
 いいえ、誰でも。





Posted at 2011/03/26 19:33:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「ジャンクタトゥー」
何シテル?   07/07 18:32
まっちゃんです。 おじさんですがよろしくお願いします。 子育て、仕事、車などなど忙しい毎日です(*_*) DIY好き、創意工夫
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