
これは日経ビジネス 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明 からのコラムです。
来週は震災以外の話題について書こう、と、前回のテキストをアップした時点で、そう心に決めていた。
私自身が地震の報道に食傷していたこともあるが、それ以上に、読者がうんざりしているだろうと考えたからだ。
あらゆる情報源が震災一色に染まっている現状は、メディアの健全性を担保する上で好ましくない。
「ただちに健康に影響を及ぼすものではないと」
と、保安院の人間はそう言うだろう。が、そんな保証に何の意味がある?
ただちに、ということを言うなら、取り落としたワイングラスにだって、いくばくかの余命はある。即座に粉々に砕けるわけではない。細かく観察すれば、手を離れたワイングラスには、運動方程式に沿った長い落下の過程がある。しかも、着地に至るまでのすべて過程を通じて、グラスの形状は完全に保たれている。大丈夫、撃たれたからといってただちに死ぬわけではない。弾丸が届くまでには、なおしばらくの猶予がある。そういうことを彼等は言っている。
記事には半減期がある。ただちにではないが、やがて無力になる。
週刊でまわしている時事コラムの場合、通常、半減期は一週間に満たない。残念な話だが、これは事実だ。認めなければならない。
とはいえ、テキストの断片が、半減期をはるかに過ぎた頃になって、読者の脳裏に、ふとよみがえる例が皆無なわけではない。書く者は、そういう放射性を持った原稿を生産すべく、常に全力を傾けねばならない。そういう意味で、私のような雑事を扱うコラムニストは、今回のような状況においては特に、読者の人生にただちに影響を及ぼさない範囲で、震災とは離れた、読者の気持に風穴を開ける話題を提供するべきなのであろう。
通夜の席では黙りこんでいるのが無難だ。何かを言う場合でも、常套句を繰り返す以上の言及は避けた方が良い。生活の知恵だ。でも、誰かが話題を振らないと場が動かないこともまた事実で、精進落しの会席を支配する気まずい沈黙を破るためには、たとえば、遠縁の伯父ぐらいに当たる人物が酔いつぶれる必要がある。その、一族のうちの変わり種の、型通りの醜態を契機として、ようやく、人々は、故人の人となりについて、多少とも率直な会話を交わす機会を持つ。そういうふうにして、世界は動いている。よく似たなりゆきで、コラムニストは、ネコの首輪に鈴を付けに行く役割を担っている者だ。コラムは、鈴の音を奏でなければならない。うまく着地できた場合に限った話ではあるが。
……という、以上の前置きは、既にお気付きになっておられる向きもあろうが、ご明察の通り、私が今週も震災について書くことについての、持って回った弁解だ。さよう。わがことながら不本意なのだが、私は、今に至ってなお、震災に囚われている。それ以外のことが考えられない。ゆえに、他の話題について原稿を書く気持になれないのだ。
津波が去って二週間が経過すれば、さすがに世間の空気も多少は変わっているはずだ、と、先週の今頃はそんなふうに考えていた。たとえば、スポーツ関連や芸能まわりの話題で、人々の関心を引く事件が起こっているだろうさ、と。
実際、事件がないわけではない。
たとえば、3月の23日に訃報が伝えられてきたエリザベス・テーラーについて書くことも不可能ではない。
……でも、ダメだ。
地震でアタマがいっぱい。被災と停電と復興と放射能汚染の脅威。私の思考は、そこのところから一歩も外に出ることができない。
なので、今週も震災について書く。どうかご理解いただきたい。
今回の震災は、特別な出来事だ。普通の厄災なら、いつまでも囚われているべきではない。二週間後には、気分を変えるモードに入っていなければならない。でも、この震災は別だ。半月やそこいらで切り替えられるものではない。肉親の死に準じた、最大限の服喪期間を設定せねばならない。中途半端な日常復帰カレンダーは、かえって事態をこじらせるだろう。アタマの中がある程度整理されるまでの間、われわれはやはり、この未曾有の悲劇の様相について、考え続けるべきなのだ。
さて、本題だ。
専門分野を持たない書き手は、せめて、多少なりとも知識を持っている畑で話をしないといけない。とすれば、今回の例において、私は、放射能や復興基金やプロ野球の開幕時期について語るよりも、まず、「言葉」について考えなければならないはずだ。そこに焦点を絞れば、大きな失敗はせずにすむ。失敗したとしてもただちにライター生命に影響を及ぼすものではない。即死だけが死ではない。誰もがあらかじめ死を約束されている。何を言っているんだ。オレは。
私が注目しているのは枝野官房長官の話しぶりだ。
彼はよくやっていると思う。
枝野さんが最初に登場した12日午後6時過ぎの会見を見て、私はこんなメモを取っている。
・ほとんど何の内容もない情報ゼロの会見。顔を見せただけ。
・これだけ中味のない会見をして、それでも無能に見えないのは見事。
・枝野君は、「大丈夫だ。でも避難しろ」と言っている。
・「心配ないけど気をつけてくれ」という意味のことを言わされている。なんと気の毒な。
・官房長官は「詳細は説明できないけど頑張っている」「っていうか、詳細が把握できていないわけだが大丈夫なのはわかっている」「わかっているけど万が一ってこともあるから避難しろ」と言っている。すごい。
・うん。まるっきり支離滅裂だ。が、それでも堂々としゃべっている。立派としか言いようがない。
結局、「言質を取られてはいけない」「誤解を招く言葉を使ってはいけない」という、ダブルバインドの中で何事か実効性のあるメッセージを発するためには、弁護士修行の実務の中で学び取ったディベート手法を持ち出してくるしかなかったということなのであろう。
私などは、弁護士出身の枝野さんの一種慇懃無礼な語り口に感心した組なのだが、誰もがそう感じたわけではない。あの無表情に反感を抱く人々もいる。
「このヒト、ウソついてるよね」
「うん。何か隠してる」
「巧言令色の見本だね」
「っていうか、三百代言という言葉を久しぶりに思い出した」
「連鎖販売取引のディストリビューターとかもこういうしゃべり方するよ」
とはいえ、当初の段階で、枝野さんの働きぶりは、多くの国民に評価されていた。
「わかったから無理すんなよ」
という感じで。とにかく、大変に勤勉に働いていたから。信用はされていなくても、評価はされていた。
引き比べて、菅首相は、目立たない。居ないみたいだ。
以下は、翌13日の菅総理の会見の際に私が書いたメモだ。
・内容が無いのは仕方がない。だって、情報がないんだし、決意を述べる以上のことはそもそも無理な状況なわけだから。
・でも、それにしてもひどい。
・たった30秒で退屈させるって、これ、ひとつの才能だぞ。
・ああ、ダメだ。選挙演説にしか聞こえない。
・このヒト、喋り方のベースが街頭演説なんだね。説明でも会見でも質疑応答でもない、モロな演説。一方的に自分の宣伝したい情報だけを繰り返して、動員した支持者にのみ訴える話し方をしている。裸の王様。赤裸宰相。セミヌード官房。哀れだよ。あまりに丸裸過ぎて。
・声の張り方や、表情の作り方。言葉の選び方。すべてが猛烈に古臭い。完全な昭和弁論部トーク。どうしようもない。
ここまでケチョンケチョンに言うことはなかった。たぶん、私は選挙演説にアレルギーを持っている。そう思って勘弁してほしい。
もう一点、目についたのは蓮舫節電啓発担当大臣のしゃべり方だ。彼女についてのメモは、時系列に沿ってかなり大量にある。一部を公開する。
・なにこれ? 顔芸? 百面相のつもり? どうしてたった3秒でも素顔が保てないの? 症状?
・要するにアレだね。表情の作り方が、高校の演劇部の赤毛芝居そのまんまなわけだ。それも新入部員の不器用な勘違いスター気取りの。
・ついでに言えば、身振り手振りがカブリモノの中に入っているヒトの演技にあまりにも似ている。宇宙怪人ゴリとか、猿の惑星とか、ショッカーとかの、両手クルクルの幼児向けオーバーアクションに。
・どうしてミュージカルみたいな声の出し方をするんだろう。
・会見をオペラだと思ってるんだろうか。
・思い出したぞ。これって、宝塚のダメな男役の発声だ。
・そう思って聞いてると、突然歌い出さないのがむしろ不自然ですね。
・歌えよレンフォー、「節電を請うるの賦」とかをさ。依頼があれば作詞するぞ。
3人の会見を見てわかることは、かかる極限状況において、リーダーは感情をオモテにあらわにすべきではないということだ。
為政者の表情は、本人がどういう意図を込めているのであれ、常に誤解される恐れを持っている。深読みされ、聴衆に動揺を与え、怒りや悲しみをもたらし、どっちにしても感情的な反応を呼び覚ます。かかる事態を防ぐべく、非常時にあって、コメンテーターは、つとめて冷静に、ゆっくりと、事実だけを、淡々と述べるべきなのだ。
その意味で、菅首相の演説口調や、蓮舫大臣の百面相は落第。枝野長官の無表情の方が、まだしも見る側に心理的な負担を強いない分だけスジが良い。私はそう思う。
とは言うものの、枝野さんについては、ここ数日、こんなパロディーが流布しはじめている。
「大丈夫?」っていうと「大丈夫」っていう。
「漏れてない?」っていうと「漏れてない」っていう。
「安全?」っていうと「安全」っていう。
そうして、あとでこわくなって
「でも本当はちょっと漏れてる?」っていうと「ちょっと漏れてる」っていう。
こだまでしょうか?
いいえ、枝野です。
ははは。長官のポーカーフェースもさすがに賞味期限が切れてきているようだ。無理もない。あの頻度でテレビに露出して、出る度に無理な弁解を強弁している以上、どんなに有能なスポークスマンであって人々に好感を持たれ続けることは不可能だ。
枝野さんが、視聴者に向かって繰り返している「冷静に」「落ち着いて」というメッセージも、反発を買う一因になっている。というのも、「冷静に」は、目上の人間が下の立場の人間に向かって言う形式の言明で、言わば、一種の叱責だからだ。枝野さんの立場にしてみれば、これを言わないわけにはいかないのだろうが、聞かされる側が不快を覚えることは、これは如何ともしがたい。
「ヤナセ君。こ、この報告書は何だ? オレをバカにしているのか」
「ははは。課長、まあ、落ち着いてください」
というヤナセのこの返事の仕方は、ビジネスマンとしてあるまじきマナーだ。著しく礼を失している。言葉そのものよりも状況が、だ。わが国の秩序感覚では、あわてたりビビったりするのは、下っ端の仕事というふうに決まっている。仮に上司があわてていても、部下はそれを指摘してはならない。まして忠告など、もってのほかである。
「か、か、課長。こ、この辞令はどういうことでしょうかぁ」
「まあ、落ち着け」
これはアリ。というよりも、「落ち着け」は、原理的に下向き限定でしか使えないメッセージなのである。
おぼえておこう。優秀な部下は課長の自尊心をくすぐるために、時にビビってみせなければならない。それでこそ可愛い部下としての十全なコミュニケーションを形成することができる。
さて、為政者の言葉が感情に曇るべきでないのはその通りだとして、では、われら市井の人間はどのような言葉をもってこの事態に対処すべきなのであろうか。
結論を先に述べれば、私は、詩の言葉がそれに当たると思っている。国難にあって人々の心情を正しく語り、力を与えるのは、詩であるはずなのだ。
別の言い方をすると、大人の言葉である散文や、大人の現実認識である理性よりも、子供の言葉である詩や、子供の処世である直感が、この際、モノを言うような気がするということだ。
大人には経験がある。われわれは情報を持ち、知恵を備えている。
だから、通常の文脈の中で起こる苦難や、想定内のトラブルについては、蓄積した世間知が役に立つ。
ところが、今回の震災のような、想定を超えた事態には、あらかじめ用意しておいた対処法や、常識的な経験知が通用しない。
とすれば、経験が無力である以上、想像力で対応するほかにない。
ということは、筋道だった思考よりも、心の柔らかさに類する資質が求められるわけで、その点で、この種の予期せぬ事態には、実は子供の方が高い適応能力を示すはずなのだ。
事実、避難所の映像を見ても、子供たちは、苦しみは苦しみとして、その中で時に笑顔をはじけさせている。
その笑顔が、どれだけ大人たちを救っていることだろう。
阪神大震災の折、避難所の子供たちにサッカーを教える活動をしていた神戸のサッカー選手は、
「子供たちの笑顔に救われた」
という意味のことを繰り返し述べている。そう。こういう時は、子供に助けてもらわなければならない。
思い出した。ぴったりの歌がある。
「ティーチ・ユア・チルドレン」という歌だ。クロスビー・スティルス&ナッシュの曲で、1971年に公開された「小さな恋のメロディ」という映画の主題歌になっている。私は45回転のシングル盤のレコードを持っていた。
私の英語力の問題を除けても、ところどころ意味のわからないところがある歌なのだが、そういうところが、まあ、あの時代のロックミュージックの持ち味でもある。以下、大意を紹介する。
You, who are on the road,
Must have a code that you can live by.
And so, become yourself,
Because the past is just a good bye.
人生の途上にある君は、
それによって生きる「コード」を身につけなければならない。
そうすれば、自分自身になることができる。
過去はまぼろしに過ぎない。
「コード」というのが良い。普通に翻訳すれば、「依って立つところの規範」「行動の指針」「生活信条」ぐらいになるのだろうが、ぜひ「コード」のまま記憶したい。背景に鳴っている「和音」みたいで素敵ではないか。
次はサビの部分。
Teach your children well,
Their father's hell did slowly go by.
And feed them on your dreams,
The one they picks, the one you'll know by.
子供たちに教えてあげなさい。
父親の時代の苦しみは、ゆっくりと過ぎ去って行ったのだということを。
そして、あなたの夢を彼等に示してあげなさい。
選びとったものを通じて、子供たちはあなたを知ることになるでしょう
この「father's hell」は、私が持っていたレコードの歌詞カードでは、"father's help"になっていた。
それだと、「父親による保護は、少しずつ失われていく」ぐらいの意味になる。こっちの解釈も捨てがたいが、よく聴いてみると、やっぱり「hell」と言っている。father's hell 私のはまだ去っていないが。
2回目のリフレインは、子供と親の主客を正反対にして書かれている。紹介したかったのはこの部分だ。
Teach your parents well,
Their children's hell will slowly go by.
And feed them on your dreams,
The one they picks, the one you'll know by.
ご両親に教えてあげるんだね
あなた方の子供が抱えている苦しみは、ゆっくりと消えつつあるんだと
そして、君の夢で、彼等の心を満たしてあげなさい
選び取った夢で、彼等はより深く君を知ることになるだろう。
思えば、平成に入ってからのこの20年余りは、詩という文芸が衰退の極に沈んでいた時代だった。
私自身は、詩集を読み、詩を書くということを日常的にこなしてきた最後の世代だと思っている。いや、私の世代でも、既に遅かったかもしれない。私より5年年長の人々は、普通に詩を暗誦し、時にヘタであっても詩を書くことのある人々だった。が、私の世代になると、詩は、薄気味の悪い文学少年のための極度にマイナーな趣味になってしまっていた。
現代では、詩は、笑いのタネにしかならない。ポエム。時代遅れの青年誌に乗っているアイドル水着写真の添え書きとして、あるいは土産物の洋菓子の取り澄ました包装紙の上でかろうじて露命をつないでいる。
私は詩を書く少年であった。
だから、出来不出来はともかく、20代の頃までは、いくらでも詩を生産することができた。
それが、40歳を過ぎると、ほとんど一行も書き進められないようになった。
ここに、何か秘密があると思う。
人も時代も、成熟を自覚すると、詩を軽んじるようになる。
そして、詩を軽んじる魂は、おそらく、予期せぬ事態に立ち向かうことができないのだ。
結論を述べる。
苦難の時にあって、われわれは詩を書くべきだと思う。
もう一度、詩の言葉を思い出して、想像力を蘇らせなければならない。
書くのが無理なら、他人の詩でも良いから、気に入った詩を暗誦すべきだ。
廃墟に詩を。
うむ。唐突かつ空々しくも聞こえかねない結論だが。コラムというのはそういうものだ。
ただちに人生に影響を与えるものではない。
こだまでしょうか。
いいえ、誰でも。