こだまでしょうか
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「ばか」っていうと
「ばか」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、だれでも。
連投サーセンww
さっきのブログの最後で、ネタとして使わせてもらったんですが
「こだまでしょうか。いいえ、だれでも」って意味がわかりませんでした
そこで速攻ググったらある答えにたどり着きました!
途中までの流れで、自分が言った事がこだまのように帰ってくる
こだまというのは、木の精霊が返事をする事 だそうです
よく使われる例で「ヤッホー」と言ったら「ヤッホー」と帰ってくる”現象”の事を言います
その”現象”について聞いてるのに、いいえ「だれでも」と”人”が出てくるからややこしいんですよね
こだまですか?いいえ、誰でも
つまり前までの流れでこだまのように、優しく接すれば優しく帰ってくるの?
と聞いて
いいえ、(こだまに限らず)だれでも
↓
つまり人も
↓
こだまのようだけど、人間の間で起こる事である
もしくは、いいえ、だれでも(他の要因が含まれて伝わります)
例えば ありがとう(優しく)
↓
言葉だけではなく、”優しさ”という見えない部分まで伝わる
つまり、単なるこだまのように、言葉だけがそのまま帰って来るのではなく、その人の感情や願い・思いも同時に伝わる
という事です
こだまでしょうか。いいえ、違います
とあえて言わない事によって、聞き手が色んな解釈ができます
そして一人ひとりが答えを探す事が、作者の狙いじゃないのでしょうか?
実際この詩がどういう流れで、どのような意味で詠われたのは知りませんが
こういう解釈をすれば、とても深くそして、とてもいい詩なんだと思いました
みなさんはどう答えを出しましたか??
~追記~
これ正確な解説ありますね^^;しかも予想はあんま当たってないという・・・
今引用申請中です・・・
~追記②~
承諾を得ましたので、以下引用させてもらいます
「金子みすずのこころ」より
こだまし合うこころ
「みすずコスモス」、みすずさんのこころの宇宙の共通のまなざしは、
「こだまでしょうか」という作品です。
こだまとは、“丸ごと受け入れる“ことです。
かつて、私達のまわりにいてくれた、すてきな大人たちは、こだましてくれる人達でした。
ころんで「痛い」といった時、両親は「痛いね」と、私の痛さを丸ごと受け入れてくれて、返してくれました。
こだまは、「ヤッホー」といったら「ヤッホー」と半分の大きさになって返ってくるわけですから、「痛いね」と返してくれた時、
私の痛さは半分になることができたのです。
しかし、今、私を含めた多くの大人が、こだますことをしないで、一方的に否定し、一方的に励ましてはいないでしょうか。
ころんで「痛い」と いった時、「痛くない」といっていないでしょうか。
すぐに「がまんしろ」といっていないでしょうか。
“このお父さん、お母さんなら愛してくれると思って生まれてきてくれた小さい人たち“の痛さを否定し、励ますだけで、一度もこだましてあげることをしなければ、痛さは消えることなく、生のまま、こころの中の辛さやさみしさや痛さという器に、押し込めるしかないのです。
そして中学生くらいになると、その器が一杯になってしまう子がいるのです。
その子が新しい辛さや痛さに出合った時、もう入れることができませんから、一度、思い切って、その器をひっくり返して、からにするしかないのです。
未来ある人達を、そんに状態に追い込んだのは、私達大人です。
私が子供だった頃、大人という人たちは、人の喜びを自分のことのように喜べる人達でした。
人の悲しみを自分のことのように悲しめる人達でした。
今、私達は自分は自分。
他人は他人と分離してしまいました。
だから、みすずさんは今、甦ったといってもいいでしょう。
私達のまわりはすべて、光と影のように、昼と夜のように、見えるものと、見えないもののように、二つで一つなのです。
二つで一つということを、きちんと認識する行為が、こだまなのです。
21世紀はみすずさんのまなざしの世紀です。
人と人が、人と自然が、自然と地球が、こだまし合う世紀です。
小さい人だけでなく、歳を重ねた人たちにも、こだまし合える自分でありたいと思います。
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佼成出版
「金子みすずのこころ」
より。~~~~
Posted at 2011/03/24 10:57:30 | |
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