やっとバタバタしていた新年も多少落ち着いてきましたので、ボチボチ活動開始です。
皆さんはしっかり休んだでしょうか?
私は今年は箱根駅伝を観たり、資料の整理をしたり、車の洗車したり、犬の相手したり、買い物したり、
何かとやる事がありましたが久々にゆっくり過ごしました。
今日から仕事始めの方も多いと思いますが、私はまだお休みなので、新春1回目と言う事もあり、
今回はまたちょっと長い特集をやろうと思います。
仕事始まったら多分、しばらくは長文は無理だと思いますので・・・。
さて、一番最初のネタは何にしようか考えてみたのですが、やはり心機一転と言う意味で、日産が最初に
サファリに挑戦した
昭和38年(1963年)第11回サファリラリーにすることにしました。
まだこの時代は選手権ではなく、名前も
東アフリカ・サファリラリーと言う名称です。
日産が世界に打って出たのは1958年のオーストラリア・モービルガストライアル(豪州ラリー)に
ダットサン210(富士号、桜号)で出場したのが最初ですが、それから5年後に、初代ブルーバード
(マイナー後で型式はPC312)2台と初代セドリック(G31)2台の4台で挑戦することになります。
豪州ラリーで成果を上げた日産は、ラリーで得た技術を新しい車に取り入れることが必要と考えるようになり、
その後もサファリを中心にラリーへの参戦をして行きます。
日産は丁度その時期に輸出への取組みも始まり、昭和34年に新しく竣工された日産追浜工場から
310ブルーバードがラインオフされます。
ちなみに
ブルーバードの名付け親は9代目社長の故「川又克二」氏です。
今回は2車種のうち、この312ブルーバードについて掲載します。
セドリックについては以前ちょっと書きましたね。
また別の機会にもう少し詳しく書こうと思います。
(画像左 311ブル標準車)
日産初のサファリ参戦の車は・・・。
https://minkara.carview.co.jp/userid/717755/blog/18805393/#cm
第11回サファリに参加することになった日産は全部で7クラスある内のCクラス(1000~1300cc)にブルーバード2台を、Eクラス(1600~2000cc)にセドリック2台をエントリーします。レギュレーションにより基本的にはノーマルで参戦です。この時のカラーリングは縁起を担いで
「フジ号」で使った濃い赤で統一されます。
そして選抜で10名の社員が世界で最も過酷なラリーと言われたアフリカに向かうことになります。
出場車
ゼッケン34番(フジ1号)ドライバー・難波靖治(後の日産チーム総監督、初代ニスモ社長)ブルーバード
ゼッケン22番(フジ2号)ドライバー・若林 隆(後の日産ラリーチーム監督)ブルーバード
ゼッケン67番(サクラ1号)ドライバー・安達 教三 セドリック
ゼッケン63番(サクラ2号)ドライバー・水田 守 セドリック
(画像右)ゼッケンが入り、本番直前の312ブル
(セドリックはカットしています)
一番左が難波さん、3番目に若林さん
4台の車両が決まり、最初は国内で1ヶ月、練習車を使って訓練をします。
訓練は本州と九州で行いますが、途中九州では雪が降ってきて「アフリカに行くのになんで雪で訓練するんだ?」
などの話もあったそうです。
(画像上)あまり知られていない国内での練習車の画像。ツートンカラーで補助灯は
ルーカス、スノータイヤらしき物を履いてますが、ホイールキャップ付き?
この後、本番車は濃い赤になります。この画像、多分結構貴重かも?
(画像上)現在も日産に残る当時のデザインスケッチ
510ブルのサイドにも名前が入ってるのでご存知の方も多いかもしれませんが、商社であるニチメン
(NICHIMEN CO,LTD)に協力してもらい現地調査をし、その後現地に船便で車と必要な部品等を
木箱に入れて送ります。
(画像上)輸送の為に箱詰めされるブルとセドリック、他部品等。
スペアカーも含み5台のラリー車とサービスカー数台も現地に送ります。
現地で本番車を使ってテストを始めますが、想像以上の条件の悪さに悪戦苦闘します。
(画像上)現地でゼッケンが付く前の練習での一コマ。相当大変そう・・・。
(画像上)練習中の日産チームの4台。NISSANの旗を掲げてます!頑張れ!
(画像上)本番用ゼッケンを入れて最終テスト中の難波さん。
ウイングランプやトランクにある燃料の給油口がラリー車の雰囲気を出しています。
タイヤはノーマルタイヤだったそうです。
そしていよいよ本番スタート!
(画像上)スタートにつく「フジ2号」若林さん
ラリー当日は10数年ぶりの豪雨に見舞われ、コースも変更されることに。
あまりのコースコンディションの悪さにリタイヤが続出!
日産チームも遅れに遅れ、ブルとセドリックは1台ずつリタイヤに・・・。
残る2台が健闘するも惜しくもタイムアウト。しかし日産チームの最終的な目的は車のテストなので
競技終了後もそのまま続行します。
そして日産チームの2台は最後まで走り抜き、無事にゴールに帰ってきました。
残念ながら競技終了後のゴールなので
リザルトはリタイヤ扱いになってしまいますが、目標となった
完走をすることが出来ました。
(画像上)数少ない走行中の写真。一番有名なゼッケン34番のカット。(難波車)
(画像上)S字をクリヤするゼッケン22番(若林車)
このラリーでは
出走84台中完走はたったの7台とダットサン2台の9台でした。
欧州勢は日本はこれで懲りて次回は参戦しないだろうと思っていたそうですが、翌年以降もサファリに
参戦し、ついにはサファリの王者と呼ばれるまでになりました。
ちなみに、車体色を濃い赤にしたと書きましたが、さらにこの4台の内「フジ1号」P312ブルと、
「サクラ1号」G31セドリックだけ現地でボンネットを艶消し黒に塗られます。
そしてこれが410、510、610、240Z、130セドリック等の後のワークスカラーとして正式に
採用されることになりました。
実は今回、このお題にしたまでは良かったのですが、一番詳しく載ってる当時の資料2つを会社に
忘れてきたのを思い出してしまい、本当は写真ももっとあったのですが、これだけになってしまいました。
また機会があったらその時にまたアップするようにします。
ってことで、新春初は新しい事にチャレンジと言う意味で、サファリ初参戦について書かせていただきました。
次回からはもっと短くしますが、正月用特番ということで!(笑)
でわ、今日の所はこの辺で・・・。また次回に!