2010年10月24日
今年で18歳になる我がビート。今日、ドライブの途中でふと後ろ姿を眺めてみると、エキパイフィニッシャーが脱落し、グサグサに腐った排気口が無惨な姿を晒していました。
マフラーそのものが破れたわけじゃないので、車検とかはとりあえずOKかもしれないけど、さすがにちょっと見るに堪えないし、何しろもう18年ものだから、マフラーの中身もひょっとしたらグサグサになってるかもしれないな。このさいだから来年4月の車検までに交換しようかな。
純正はまだ在庫あるんだろうか?それともこの際無限とかに変えようか?ちょっと迷ってます。ビートのマフラー換えたことある人、アドバイスくださーい!
Posted at 2010/10/24 23:43:47 | |
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2010年09月12日
いわゆるミニバンっていうやつは、日常生活をまるごと全てクルマに詰め込んで出かけられるところが病みつきになるらしい。
クルマでお出かけ、というのは、今やまったく特別なことじゃないし、そうである以上、何の我慢も強いられないというその気楽さは確かに魅力的なのかもしれない。
最近読んだ『ケータイを持ったサル(正高信男著・中公新書)』という本に書いてあったが、今のトレンドは、どこでも「家のなか感覚」にしてしまうこと。どこでも地べたに座り込む若い人の風俗もその表れなんだそうです。ミニバンは、そんな時代のトレンドにもまさにぴったりと合っているのでしょう。
今ではほとんど死語となっていると思われる、「ドライブ」は、かつて家族にとって特別なイベントでした。やっとの思いで月賦で買ったスバル360に、家族4人がぎゅうぎゅう詰めになって海へ、山へ。リヤシートにDVDなんかついてなくても、それは「幸せ家族」そのものだったはずでした。
だけど、車そのものに遊んでもらうんじゃなくて、使い手からクルマへの働きかけ、つまり知恵を使って車を使いこなすということを楽しもうよ、という主旨のわが党としては、あんまり賛同できない流行だな。
バカの壁に書いてあった、便利に豊かになりすぎることで、人は不幸になっている。
クルマはあなたをときめかせていますか、なんて言ってる会社があるが、ほんとにときめいていないよね。月賦で買ったスバル360に、家族4人がぎゅう詰めになって出かける「ドライブ」(死語)非日常は、快適とは程遠いかもしれないけど、エルグランドとどっちが「幸せ家族」かといえば、どっちとも言えないんじゃないか?
大は小を兼ねる、じゃなくて、ぎりぎりの車選びのほうが、使う楽しみがあるし、お財布にもやさしいのでは?
(2004年1月)
Posted at 2010/09/12 21:19:25 | |
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ちっぽけなくるま党 | クルマ
2010年09月12日
軽自動車の中には、過給器や非常に高度な機構によって、小型車をも凌駕する高性能を謳う車がある。そういう車は、結果として価格面でも、例えば1,000ccクラスの小型車とほとんど変わらないか、場合によってはそれらより高価な場合すらある。
自動車ジャーナリストの中には、そういう一部の軽自動車を槍玉に挙げ、もはや軽自動車は不要なのではないかとか、これは見方によっては脱税ではないかとする意見がある。しかし、党首はそうは考えない。
重量や排気量によって段階的に定められる自動車の税金体系の中で、確かに軽自動車だけが突出して安く設定されている事に対する議論の余地は有るかもしれない。でも、消費者の立場を代表するべきジャーナリストが、どうして軽自動車の税金の安さを問題にする前に、小型あるいは普通乗用車の税金の「高さ」を問題にしないのだろうか。
党首は、軽自動車の高性能化を、行政対技術の競争における技術の勝利と位置付けたい。なぜなら、こうした高性能な軽自動車が、決して安くはない価格にもかかわらず、消費者の支持を得ているのだから。もしこれを行政が軽自動車恩典の不当な享受であると位置付けるならば、さらに消費者にとって有益で、かつメーカーのチャレンジ精神を掻き立てるような新しいレギュレーションを考え出せばよい。
持論を繰り返すが、党首のアイデアは、エンジンは排気量ではなく燃費または排ガスのクリーン度で、車体寸法は全長×全幅、即ち占有面積で規制を設け、それを達成するためのアプローチの方法は極力メーカーの自由にしておくべきだと考える。そうすれば、税制面での優遇もより説得力があるものになるし、各メーカーが独自のアプローチで個性ある軽自動車を開発することにより、消費者にとっての選択幅も広がるはずだ。
(2001年2月)
Posted at 2010/09/12 21:17:25 | |
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ちっぽけなくるま党 | クルマ
2010年09月12日
東京都が、都民の健康を護るために都内でのディーゼル車の走行に制限を加える政策を提案し、都民や専門家と検討を進めている。石原都知事自ら、公募された都民の代表や各界の有識者と公開討論会を実施するなど、都民参加型の政策検討の姿勢には好感が持てる。
確かに、都内に限らずディーゼル車の吐き出す黒煙が国民の健康に及ぼす被害は甚大なものがあると思う。トラックメーカーやトラック輸送業者などは、それと引き換えに多くの都民が享受している便利な物質生活を棚に上げて、ディーゼル車だけを槍玉に挙げる議論のやり方に反発する動きもあるようだ。しかし、あの黒くて臭い排気ガスはやはり誰が何と言おうと無いに越した事はないと思う。
しかし、すべてをディーゼルという機構のせいにしてしまう事には賛成できない。
議論の基本に立ち返ってみると、政策の目的は、あくまで都民の健康を護ることにあるはずである。ならば、シャットアウトするべきなのは「黒煙」、もっと厳密に言えば、「黒煙に含まれる有害成分」であり、「ディーゼル」という機構ではない。
黒煙や騒音など、現状のディーゼル車には確かに欠点もある。だが、逆に燃費が良いため結果として二酸化炭素の排出が少ないこと、さらに低速トルクが豊かで運転しやすいことなどいくつかの点ではガソリン車を凌いでいる。これらの美点は、物流をつかさどるトラックだけでなく、一般の乗用車にとっても望ましいものであるため、ヨーロッパなどでは、日本とは対照的に、環境対応への切り札としてディーゼル車がむしろ注目されているほどである。
また、一定量の原油から生成されるガソリン・軽油・重油などの比率は決まっているのだから、ガソリンだけをどんどん使って、軽油は要らないから捨ててしまおうという訳にもいかないはずだ。
しかるに、行政によって「ディーゼル車」を眼の敵にして無条件に締め出してしまうと、自動車メーカーは「黒煙の出ないディーゼル車」という相矛盾する命題に取り組もうという意欲をスポイルされることになるだろう。東京都の考え方の原点は、ディーゼル車は未来永劫黒煙の問題をクリアできないという前提に立っているように思われるが、誰がそれを断言できようか。
環境保護への貢献度が高い車を行政面で優遇する、あるいは環境にダメージを与え得る車にペナルティーを与えるという考え方自体は良いと思う。しかし、その際の基準が自動車技術者の自由な発想を妨げるものであってはならない。本来の目的(エンジン排気中の有害物質の含有量)にだけ数値目標を課し、その目標達成へのアプローチのしかたは完全に自由にしておくべきだと思う。ガソリン車でも、ディーゼル車でも、有害な排気ガスを出さない車がいい車なのだ。
(1999年9月)
Posted at 2010/09/12 21:15:31 | |
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ちっぽけなくるま党 | クルマ
2010年09月12日
先日、出張先のホテルでNHKの衛星放送を見る機会があった。その日は、日産の新取締役に就任したカルロス・ゴーン氏の特集を放映していた。私は、一人の自動車好きとして、また自動車メーカーに勤める者として、非常に興味を持ってこの番組を拝見した。
ゴーン氏は、日産に資本参加したルノーが日産の経営立て直しの切り札として送りこんだ人物で、赤字体質であったルノーをわずか2年で黒字転換した実績を持つ辣腕の経営者である。
「コスト・キラー」という異名を持ち、冷徹な経営判断により徹底した製造コスト削減をはかるのがゴーン氏の得意技であるとの紹介であった。番組では、特に外部からの購買部品の高コスト体質に目をつけ、「系列」というしがらみの無い身軽な立場を利用して、「良い物を安く買う」という原点に立ち返った、思いきった取り組みを始めようとしている様子を伝えていた。
コスト削減による経営効果についての論評は、その道のプロに譲るとして、私が特に興味を持ったのは、ゴーン氏が現在の日産の問題点として、コストの問題の他に、「スタイリングが顧客に受け入れられていない」ことを指摘していたことである。私も個人的に、最近の日産車のスタイリングについては、あまりにも時代錯誤なものが目立つなという見方をしていたので、この発言を聞いて、「なるほど、ゴーン氏はコスト削りだけでなく、商品としての自動車をきちんと見ているのだな」と少し安心するとともに、ゴーン氏に共感を持った。
番組では、ゴーン氏が最近発売されたばかりの新型セドリックに乗りこみ、デザイナーと対話する場面で、「この車の販売が計画を上回れば、君の仕事は成功であり、下回れば、このデザインは失敗作だ」というような内容の発言をしている様子が紹介された。経営建て直しと言う「結果」を出さなければならないゴーン氏の発言としては、理路当然と言うべきであろう。
が、しかし。
日産に限らず、日本の自動車のデザインの貧弱さは、よく自動車雑誌などでジャーナリストに指摘される問題だし、私も確かに日本の自動車デザインは、未だ世界をリードする力を持ち得ていないと思う。ありがちな論理はこうである。いわく、「日本の自動車デザインはマーケティングに依存しすぎている。結果、どれもこれも最大公約数的なデザインばかりでインパクトが無い。逆に例えばヨーロッパ車などは全身からほとばしるデザイナーの強い意志が感じられて素晴らしい。日本のメーカーも顧客の顔色ばかり伺っていないでもっとデザイナーが前に出て提案するべきなのだ」と。
翻って、ゴーン氏は、そのヨーロッパからやって来た辣腕経営者である。ルノーを立て直した実績もある。日本の名門・日産が、なぜヨーロッパからやって来た取締役に、わざわざ日本人みたいなことを言われなければならないんだ!
この矛盾は、意外と日本の自動車デザインが持つ問題の本質を映し出しているのかもしれない。日産であれ、ルノーであれ、どこであれ、自動車を道楽でなくビジネスとしてやっている以上、「売れる」ことは絶対的に正義である。だから、日本のメーカーも、ヨーロッパのメーカーも、車をデザインするときには、顧客が思わず財布の紐を緩めてしまうようなデザインをやりたいと思っているに決まっているのであり、メーカーのデザイナーに対する評価もそうした基準で行われているに決まっているのである。なのに、結果として出てくるデザインは、どうしてこうも違うのか?
つまり、自らも自動車メーカーに身を置き、マーケティングでメシを食う人間として自戒を込めて言えば、日本の自動車メーカーのマーケティングって、非常に木目細かにお客様を見ているようで、実は非常に木目細かに競合他社(それも自社にとっての非常に特定された)の動きを観察しているだけなんじゃないかと。
(1999年8月)
Posted at 2010/09/12 21:12:51 | |
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