
TiPo 92年9月号コラムより 続き・・・
同じ排気量から700馬力とそれを保障する信頼性を得ようとするなら結果的には、
それはフェラーリV型12気筒エンジンより数倍高価な代物になる。
頑丈で精密な、土台に、超高精度な部品を載せ、しかるべく締めて固定することに
よって、ロッシはそれを行う。
「ゲーリー、ユーのエンジンが今日回ったよ。680馬力出た。680馬力だ。
パンテーラに載せれば時速200マイルは俺が保障しよう」
国際電話の声が踊っていた。
光永は本物の700馬力をこうしてその手にしたのである。
時速307.69キロの伝説
1981年11月17日、光永のパンテーラはJARI(日本自動車研究所)
高速集回路で最高速度記録に挑んだ。ある雑誌の企画である。それは誰も公認しない
記録への挑戦だった。ステアリングを握るのは元日産ワークスドライバー高橋国光。
一対の光電管式速度測定器が置かれた400メートルの区間を、パンテーラは
閃光のように駆け抜けていった。
時速307・69キロ。
その日エンジンは不調だったという。「600馬力って本には書いといてくれよ」光永は嬉しさを
隠さずに僕にそういってはにかんでみせた。
だが直線があと1キロあれば光永のパンテーラはおそらくその日に時速322キロ=200マイル
に到達していた事だろう。
光永とパンテーラにとって、当日は完成試走のようなものだった。
次のステップは東名である。東名を走りセッティングを煮詰め、翌年の
春にはもう一度テストコース上で時速200マイルに挑む・・・。
それが光永の心に描かれていた計画の第二段階だった事だろう。マシンは
ついに完成した。試走で実力の片鱗を見た。次は俺が乗って楽しむ番だ・・・・
そう思っていたことだろう。
12日後、11月28日の夜、僕は光永と夕食を共にし、翌日、日曜に予定していた雑誌の
取材・撮影の打ち合わせをした。光永のパンテーラの存在が公になるのは、その記事が
最初になるはずだった。
公認だろうが非公認だろうが、その記録をだした車がナンバープレートをつけた世界最速
のスポーツカーであることに変わりは無い。打ち合わせを終えて外に出るとパンテーラが
そこにいた。猛獣は美しかった。
光永と彼の友人のメカニックの2年半に及ぶ努力によって、700馬力を収めるエンジンルームは
もちろんのこと、足回りや内装、イタリアンレッドの外装に至るまで完璧にしたれられた宝石の
ように輝いていた。
「乗れよ」光永は容赦なく踏んだ。700馬力に鞭が入ると、それはスタートしてから5秒もかからずに
120キロに達し、さらに豪然と加速し続けた。
それまでに体験してきたいかなる物事も、その加速の前では単なる子供騙しだと思った。
「じゃ明日」
青山通りで僕をクルマから降ろすと、光永はそう言ってパンテーラ
と共に走り去り、そして二度と戻ってこなかった。
午前1時40分過ぎ、家路に向かう途中の目黒区目黒通り・大鳥神社交差点の金毘羅坂で、
光永の運転するパンテーラは突如コントロールを失い、目黒学園前の歩道橋脇に激突した。
パンテーラは衝撃でくの字に折れ、一瞬にして光永の命を奪った。写真も残してはくれなかったのだ。光永はそのすべてを手にたずさえて逝ってしまった。
「日本人ってのは、どうしてあんなクズみたいなエンジンを喜んで買っていくんだ?」
アメリカのさる有名なレーシングメカニックはそう言う。
「日本てのはゴミ溜めみたいなもんだな。しかし・・・」
ブルーの眼がいっとき遠くを見つめるように細くなる。
「・・・そういえば1基だけスゲエのが行ってるな。ロッシの親父が組んだやつだよ。
あの男・・・なんて名前だっけな・・・」
「ゲーリー・アラン・ミツナガ。げーリ・アラン・ミツナガ」
「ゲーリー。そう。日本でも有名なのか?つまりなんていうかその、あの男の話はこっちの
仲間内じゃ、要するに伝説みたいなもんなのさ。達者でやっているのかい?」
あれからもう11年もたってしまった。・・・・
チューニングのチの字も理解していなかった当時、すごい衝撃を受けました。
学生の頃H元年~ OPの最高速の殿堂にあった不滅の大記録・・
なんで チューニングではメジャーでないアメリカンV8がこんな記録を・・
ずっと 疑問に思っていました。
そのチューニング内容、スピードに賭けたオーナーの情熱を 後年知り・・・
目頭がちょっとだけ熱くなったのでした。
ブログ一覧 | 日記
Posted at
2011/06/24 22:19:56