
つい最近、我が家の裏の稲田の収穫が行われました。
台湾茶藝館「好茶点」のカウンターから正面の窓を通して見ることが出来るので、春先の土起こし、水を張って田作り、代掻き、田植え、草掻きなど、その移り変わりの風景を、まるで絵画を見るようにカウンター席から見守ってきました。
もちろん、常連客の皆様もその自然が織り成す生きた絵画を眺めるのが楽しみのようでした。
初夏には若々しい黄緑色、盛夏には深い緑色の絨毯は、雨に濡れるとその稲葉についた水滴が夕日を浴びてきらきら光り得も言われぬ美しい光景となって目の前に溢れました。
いよいよ秋になり、天使たちが舞い降りて美しい黄金の絨毯にその色を変える。
秋風になびく稲穂は、その重さ故ゆったりとした動きで風を形にして壮大な絵を一瞬一瞬で描く。
そんな美しい絵画は、ある朝突然、大型の機械によって2時間足らずで消し去られてしまった。
そう、刈取られたのでなく消し去られたのです。
現代では当たり前の事なのでしょうが、「自然」の「時の流れ」に対し余りにも早すぎる終焉には寂しさを隠せません。
確かに機械化により便利になった事で時間が短縮でき、余裕が出来たかも知れませんが、自然に対する接し方が希薄になってしまったように感じられます。
その昔、刈り入れは手作業だったため、多くの人手を必要としご近所同士助けあって老人から子供まで総動員で行われたと聞きます。
刈り取った稲穂はその場で適当な大きさに藁紐で束ねられ、はざに掛けられますが、それを運ぶのが子供たちの仕事だった筈で誰もが皆必要とされ、作業を通じて人間関係も培われたことでしょう。
本当に手を掛けて大事に育てたお米だから、一粒も残さず刈り取ったでしょうし、刈取り中に落とした稲穂も残さず拾ったでしょう。
今となっては、ミレーの「落穂拾い」のような光景を見られないのは残念なことです。
夕方わんこたちとの散歩の途中、この田んぼの畦に一株の獲り忘れられた稲穂を見つけたので、思い出としてお店に飾ろうと何本か頂戴し、花瓶に挿してそんな思いに更けていました。
人間は今でも本当に「自然」を愛しているのだろうか。
もしそうだとしても「自然」を上手に愛せているのだろうか。
「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」
私たち人間は、今でも「自然」に対する感謝の気持ちを持ち続けているのだろうか?
獲り残しの僅かな稲穂でこんな想いを馳せられるのも、秋の天使の成せる技かもしれませんね。^^
Posted at 2010/10/14 04:17:15 | |
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好茶点 | 日記