仕事上、プジョー405ブレークでは積載容量が不足してきたため追加仕事車で選んだのが、当時、「世界初125マイルミニバン」が海外でのキャッチフレーズで一躍話題をさらっていた初代オデッセイでした。
125マイル(時速200km)で巡航可能なミニバンなど、当時では考えられないものだった。
それ以前のミニバンと称するものは、基本設計がトラックなどと基本を同じとするラダーフレームのシャシに箱のボディを被せただけの構造が一般的で、とても高速巡航に耐えうるクオリティを求めることは出来ないものであった。
オデッセイは、HONDAという乗用車メインのメーカーで、ミニバンはこういうものだと云う既成概念が無かった上、当時経営難だったこともあり、無駄に投資が出来ない状況の中、アコードのシャーシを使い、既存の生産ライン(乗用車用)で高さが制限されたことも、この独創的なスタイリングを生み出せた要因だったようである。
ちなみに当時人気があったエスティマでさえ基本構造はトラックのそれと同じであったと考えれば、オデッセイがいかにスペシャリティーミニバンであったか分かるはずである。
そんな情報をいろいろな雑誌から仕入れていたので、納車後のオデッセイ・ライフは納得のいくことばかりで、実に楽しかった。
とにかく乗り易かったので、チョイ乗りでも使うほどメイン車の立場を確立していた。
そんな「オデ子」との別れは突然やってきた。
その日はクライアントに提出するプレゼンを作るために前日徹夜をして、50kmほど離れた相手先で仕事を終えた安堵感もあって、猛烈な睡魔が襲ってきたのだ。
安全を考え仕事仲間にハンドルを預けて、私は助手席で深い眠りに就いたのだったが、次に目が覚めた時、私は病室の中に居た。
裂傷や打撲はひどかったが、五肢が満足であったことは私にとって不幸中の幸いだったといえるだろう。
しかし後日、廃車置場に置かれたオデ子を見た時その幸いは偶然ではないことを思い知らされた。
仲間の不注意で太い街路樹にノーブレーキで激突した衝撃はオデ子のフロント部分をグシャグシャにし、なんとエンジンが割れるほどだったのだ。
閉まらなくなったドアから中を覗くと助手席は足元が押しつぶされ、なんと私の靴が挟まったままになっていた。
よく足が骨折しなかったものである。
シティTURBOに助けられたこの命が、またしてもオデッセイに助けられたことに、改めてHONDAの安全性に対する真摯な姿勢を確信したのだった。
オデ子には、お酒で清めてあげ「ありがとな」と声を掛けてやり、2年半の良きパートナーに別れを告げた。