google検索で“南部陽一郎”と打ち込むと予測変換で“南部陽一郎 天才”って出るのは当然と言えば当然で,その先を見越した並外れたアイデアは「十年先が知りたければ南部に聞け」と言われたほどとか。70年一緒に過ごした奥さまに二人の馴れ初めを聞いたら「一目惚れでございました」と言わせた彼は,ただの天才じゃない…,やっぱ大天才です(^ ^
南部陽一郎氏死去 素粒子理論でノーベル賞
【2015年7月18日 東京新聞】
自然界の成り立ちを説明する素粒子理論の世界的権威で、二〇〇八年にノーベル物理
学賞を受賞した米シカゴ大名誉教授の南部陽一郎(なんぶよういちろう)氏が五日、急
性心筋梗塞のため大阪市内の病院で死去した。九十四歳。東京都出身。葬儀・告別式は
近親者で行った。幼少期から旧制中学までを福井県で過ごし東京大理学部卒。大阪市立
大教授を経て渡米し、一九五八~九一年シカゴ大教授。宇宙を構成する最も基本的な存
在である素粒子の理論研究で数多くの業績を挙げ、「物理学の予言者」と呼ばれた。
六〇年代初めに提唱した「自発的対称性の破れ」の理論でノーベル賞を受賞。小林誠、
益川敏英両氏と同時受賞だった。
南部氏の理論は、自然界を説明する「標準理論」の基礎となり、物質に重さを与える
ヒッグス粒子の存在の予言に役立った。ほかにも素粒子をひもとする「弦理論」の提唱
や、素粒子に色の概念を導入するなどノーベル賞級の業績が複数ある。
ノーベル物理学賞を受賞した故湯川秀樹氏、故朝永振一郎(ともながしんいちろう)
氏の後を継ぎ、日本の若きエースとして頭角を現したが、五〇年代後半からシカゴ大で
活躍、七〇年に米国籍を取得した。七八年文化勲章。大阪大と大阪市立大の特別栄誉教
授。
◆「10年先」行く予言
<評伝> 南部陽一郎氏は別格の物理学者だった。新しいアイデアで鋭く先を見通すこ
とから予言者と呼ばれ「十年先が知りたければ南部に聞け」とも言われた。
まだノーベル賞を受ける前の南部氏を国際会議で取材した。米国をはじめトップ研究
者が集い、休憩時間のロビーには有名学者を囲む人の輪ができた。華やかな会場の片隅
に一人コーヒーを飲む南部氏がいた。次の休憩も一人。なぜだろう。もう過去の人なの
だろうか、と不思議に思った。
とにかく声をかけると、にこやかに応じてくれた。疲れてホテルに戻るというので歩
きながら話した。「米国はいいですよ。私のような年を取った名誉教授にも立派な研究
室をくれるしね。日本じゃ考えられない」と楽しそうにシカゴ大の話を聞かせてくれた。
南部さんは過去の人なんでしょうか-。後日、会議に出ていた研究者に尋ねると大笑い
された。「みんなおそれ多くて話しかけられなかったんだよ!」。予言を聞くには勇気が
いるものだと納得した。
予言者ぶりはノーベル賞を選考するスウェーデン王立科学アカデミーも認める。二〇〇
四年の物理学賞。「強い相互作用の理論」で米の三人が受賞した。その業績紹介には南部
氏の名が八度も出てくる。受賞者より多い。なのに賞から漏れた理由をアカデミーはこう
説明した。「南部の理論は早過ぎた」
普通ならここで終わりだが南部氏は四年後、別の業績「自発的対称性の破れ」でノーベ
ル賞を受けた。
同時に受賞した益川敏英・京都大名誉教授は負けん気が強い人だ。受賞の知らせに開口
一番「大してうれしくない」と言い放った。だが、会見で南部氏に話が及ぶと「仰ぎ見る
ほどの偉大な学者。一緒に受賞できるなんて」とハンカチで涙をぬぐった。南部氏はノー
ベル賞学者からも特別の尊敬を集める存在だった。
半生を紹介したいと昨年、連載の「この道」に登場してもらえないかと依頼したが、実
現しないままだった。 (永井理)
南部さんを描くきっかけは今朝の東京新聞のコラム筆洗から。いい話です。
【筆洗】
九十四歳で逝った南部陽一郎さんとは、どんな人だったか。数学界で最高の栄誉フィー
ルズ賞の受賞者の一人は「みな彼を理解できない。彼があまりにも先を見通しているから
だ」と評したという▼米科学誌によれば、著名な物理学者も嘆いたそうだ。「南部がいま
考えていることが分かれば、私は人より十年先を行くことができると考えたことがあった。
それで彼と長い時間話し込んだのだが、彼が何を言ったかを理解するのに十年かかった」
▼謎多き素粒子物理の世界で灯台のように進む先を照らし、ノーベル賞に輝いた南部さん
だったが、戦時中は陸軍でレーダーの研究に従事させられ、「泥棒」を命じられたことも
あった▼陸・海軍はともに同じような研究をしていたが、両者の確執はすさまじかった。
一九六五年にノーベル賞を受賞した朝永振一郎博士は海軍でレーダー研究に関わっており、
機密の朝永論文を「盗め」というのが、若き南部さんに下った指令だった▼南部さんは穏
当な形で任務を果たしたそうだが、どうもそのころ「恋泥棒」にも成功したようだ。妻・
智恵子さん(93)の追悼の談話にこうある。「私が夫と出会ったのは、宝塚にあった陸
軍の研究施設でした。私の一目ぼれでございました」▼七十年余をともに歩んだ伴侶に
「一目ぼれでございました」と言わしめる。何と、魅力的な人だったのだろう。