私の車にはSDカードを入れるところがあって,それを落語専用にしてます。ドライブしながら落語,楽しくておまけに眠くならずにいいですよ〜♪名人を越える芸,人間国宝,文化勲章,そして桂文枝曰く「落語の神様のような存在だった」と。私の好きな桂枝雀さんの師匠でもありました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
上方落語を再興、消えかけた芸に命 桂米朝さん死去
【2015年3月20日 朝日新聞】
伝統を現代に生かし、消えかけていた伝統芸能に新たな命を吹き込んだ人間
国宝の落語家、桂米朝さんが89歳で亡くなった。上方落語を全国区に押し上
げ、大きな功績を演芸史に残した巨人は、関西を拠点に芸を愛し、信じ続けた。
人間国宝、文化勲章と輝かしい経歴を積み上げながらも、「よろしゅうおた
の申します」。生涯情熱を傾けた上方文化への誇りを示すようなはんなりとし
た関西弁、庶民的な人柄で広く愛され続けてきた。
若き日から幾度となく引き離されても、失うことはなかった芸への情熱。戦
後、東京一極集中になりかけた落語界で、上方の旗をしなやかに掲げて、確か
な基盤を築いた。演者であり、研究者であり、教育者。不世出のスケールで、
東西落語が並び立つ豊かな文化を残した。
最初の扉を開いてくれたのは、12歳の時に亡くした父だった。郷里の兵庫
県姫路市から大阪に連れていってもらい、そこで見せられた落語や歌舞伎など
の世界に夢中になった。父の病死で閉ざされたが、心の空白を、演芸の書物を
むさぼり読むことで埋めた。
俳句もたしなむ風流さを備えた少年は17歳で東京の学校に進み、寄席通い
ざんまい。作家の正岡容(いるる)に認められ、若き寄席文化研究家として歩
み出す。しかし、時は明日をも知れぬ戦時下。19歳で軍隊に入隊することに
なる。最後かと思い詰めて大阪の寄席に出かける。それが入隊まもなく、急性
腎臓炎で療養生活に入る。空襲で実家は焼け、療養所でも空襲警報が鳴る。
1945年7月31日付の日記に心境をこうつづった。
「これまでの命なりとすら思へり。ここを強く生き抜くぞまこと男の子の道
にやあるらむ。強き力を与へくれるものぞほし」
終戦直前の8月12日、療養所を出た足で大阪に向かった。上演されていた
文楽を見るためだった。芸事を生きる糧にしていた青年は、終戦後は会社に勤
めながら新作落語を書き、落語会の世話をした。そして47年、ついに弟子入
りして落語家になる。継承の糸が細くなっていた上方落語界に身を投じた。
「ええかっこして言うたら情熱、義務感。やっぱり、落語が好きやったことで
すな」
上方きっての知性派の師・桂米団治は入門からわずか4年で病死。これと相
前後して、大看板が相次ぎ亡くなった。ラジオから流れるのは、もっぱら東京
落語。危機感をバネに、少年時代から蓄えた知識と観客のニーズを踏まえて、
戦後社会に通じる落語のあり方を模索した。文献や古老の証言をもとに古きを
受け継ぎつつ、わかりづらい表現を改める。趣味の俳句で培った情景描写力や、
余韻を残す言葉選びのセンスも生かした。伝統を引き継ぎ、いかに新しい命を
吹き込むのか。永遠のテーマに対する節度ある答えを米朝さんは示そうとした。
その問題意識を上方芸能の同志と結成した「上方風流(ぶり)」の同人誌にこ
う記している。
「先人の型を大事に然(しか)も、今の大衆に古い芸能の良さを伝える為
(ため)に、少しでも解(わか)らせる方法を」
仕事は、高座にとどまらなかった。落語の歴史や魅力を伝える知識や芸論を
惜しみなく書き表す。楽屋で芸人同士で遊びに興じている時間も惜しんだ。
「滅んでしまっては、あまりにもったいない」。ただ、その一心だった。40
代からは全国各地のホールで独演会を重ね、テレビの司会者としても活躍する。
多忙を極めるようになっても、40歳の時に京都で始めた「桂米朝落語研究
会」を続け、後進たちをテニヲハから厳しく指導した。休むことのなかった行
動力の裏側には、自らの人生への切迫感もあった。
芸への思いを育んでくれた父親、正岡、米団治はみな50代のなかばで病死
していたからだ。「ワシも55歳で死ぬ」。限られた時間しかないという思い
で滅びかけた落語を次々と復活させ、音源と活字で残した。若き日から愛する
芸や大切な人たちと引き離されてきた痛切な体験が、六代目笑福亭松鶴、三代
目桂春団治らとともに上方落語を再建する底力となっていた。
だが、99年に爆笑王の異名を取った枝雀、2005年には本格派の吉朝と、
後を託すはずだったまな弟子たちに相次いで先立たれる。1席の落語を最後ま
で演じ切ったのは81歳の時。その後もたびたび入退院したが、一昨年の正月
までは弟子たちと大阪の舞台に出演していた。昨年6月には妻の絹子さんが亡
くなり、公の場から遠ざかっていた。
最後のレギュラー番組となったのは朝日放送のラジオ番組「米朝よもやま噺
(ばなし)」。最後の収録となった一昨年6月、スタジオで珍しく声を荒らげ
て怒った。「どないおもてんねや」。浪曲を聴いたことがない孫弟子を叱った。
広く芸を学ぶ姿勢は、芸事への無私の愛情を持って歩んだ米朝さんには当然の
ことだった。
上方落語の定席「天満天神繁昌(はんじょう)亭」の舞台には直筆の「楽」
の一字が飾られている。直弟子たちによく語ったのは「最後は人間」という教
え。売れっ子になりたい私欲から芸人になったわけではない純粋さが、米朝さ
んの生涯を貫いていた。芸を信じ、愛し方を教えた上方の師匠。「名人」を越
える業績を落語界に残して世を去った。(篠塚健一)
↓これが「百年目」。聞き入ってしまいます(^^