今年の1月に50歳すげ~!って似顔絵描かせてもらいましたが、今季で引退するってニュース聞いたらもう一回登場してもらうしかないでしょ!ユニホーム着替えて少しニッコリ笑ったお色直し。
本当に32年間お疲れ様でした〜!
32年 マサ完全燃焼 史上初の50歳登板
【2015年10月8日 東京新聞】
今季限りでの現役引退を表明した中日の山本昌投手が7日、マツダスタジアムで
行われた広島最終戦に50歳1カ月26日で先発登板し、プロ野球史上初めて50
代での登板と出場を果たした。打者1人だけの登板。3球目で丸を二ゴロに仕留め、
32年間にわたったプロ野球生活に、涙で別れを告げた。試合は中日が3-0で勝
った。山本昌に勝敗は付かなかった。
自身が49歳11カ月29日でマークした最年長登板、最年長出場、最年長先発
のプロ野球記録を塗り替えたが、自らが持つ49歳25日の最年長勝利のプロ野球
記録更新はならなかった。2012年に米大リーグのロッキーズで、ジェイミー・
モイヤーが達成した49歳5カ月28日の最年長勝利の大リーグ記録も上回ること
はできなかった。
ことしは開幕前に右膝の故障で出遅れた。8月9日に先発で今季初登板したが、
投球中に左手人さし指を体に当てて痛め、二回途中で降板。その後は2軍で調整を
続け、引退表明会見を開いた9月30日から1軍の練習に合流した。通算成績は
219勝165敗5セーブ。
◆全力3球、涙、一礼
115キロ、116キロ、そして117キロで二ゴロ。中日の山本昌が投じた
3球だ。最初の2球は低めに大きく外れ、高めに浮いた球を丸が打ち損じた。
「自分も真剣勝負ができたし、丸も真剣勝負をしてくれてうれしかった」。全力
で32年のプロ野球人生を締めくくり、感情が高ぶって止めどない涙があふれた。
広島にとっては、勝てばクライマックスシリーズ進出が決まる大事な試合。
「手加減は無用。僕も必死に投げる」と臨んだが、8月9日の今季初登板で痛め
た左手人さし指は万全ではなく思うように球は操れない。慌てずストライクを投
げることに集中した。
最後の「わがまま」で実現した登板だった。8月9日は二回の先頭打者に3ボ
ールとしたところで、指の痛みに耐えられなくなってマウンドを降りた。「32
年間の最後が納得できない降板では嫌だから、球団にお願いした」とプロ野球史
上、50歳代で初めてグラウンドに立った。
三塁側の中日の応援席のファンは背番号の「34」と書かれたボードを掲げ、
広島ファンからも拍手が湧き上がった。引退会見で「世界で一番幸せな野球人生
を送れた男だと思っている」と胸を張った山本昌。マツダスタジアムに広がった
光景は、それがうぬぼれではない証しだった。 (吉光慶太)
◆もう練習しなくていいと思うと寂しい 山本昌の一問一答
-投げ終えて。
「泣かないと思ったけど、アウトになったときのファンの声援。登録されてい
ない選手も名古屋から駆けつけてくれて、我慢できなかった」
-普段との違い。
「こんな結果を気にしなくていいマウンドは初めてだと思っていたが、試合前
は32年間と同じで緊張した。フォアボールは嫌だなとか、打たれたくないとか、
最後は欲が出た」
-プロ野球史上初の50歳登板を達成。
「他人事なんだよね。自分がやったという実感がない。夢中で突っ走ってきた
結果」
-ブルペンでは胴上げされたそうだが。
「『重い、重い』と言われながら7回上げてもらった。減量しておけばよかった」
-あしたからは。
「もう練習しなくてもいいと思うと寂しくなる。野球の勉強をしっかりやる」
<やまもとまさ> 本名は山本昌広(やまもと・まさひろ)。84年に神奈川・日
大藤沢高からドラフト5位で中日に入団。米国留学で習得したスクリューボールを
武器に活躍。これまでに最多勝を3度、ベストナインを2度、最優秀防御率と最多
奪三振を1度ずつ受賞。94年には沢村賞に輝いた。06年には史上最年長でノー
ヒットノーラン、08年には通算200勝を達成。
186センチ、87キロ。左投げ左打ち。50歳。神奈川県出身。
Posted at 2015/10/09 10:09:12 | |
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