彼がノーベル賞を受賞した時、よしっ一冊読んでみるかと思ったのは良いけど、まったく難解な日本語で、あぁーこれは外国語にした訳者が良かったんだな〜なんて一人納得したものでした。が、今回はとても分かりやすい。
ぜひご一読を!
大江健三郎 脱原発集会あいさつ文
【2013年3月12日 東京新聞】
福島の大震災、原発事故の直後から一挙に高まった「原発ゼロ」の声は、
私が生まれてから老年のいままで、かつてあじわったことのない、統一
された日本人の声でした。ほんの子供の頃の超ナショナリズムの気運が、
これと近かったか、と思うのみでした。
それがいま色褪せて来、勢いを失っているのじゃないか、という声は、
まさにタメにするものです。今日、私らはその反証を大きく示しうるで
しょう。それはフクシマが、日本人得意の慣用句、
ナカッタコトニスル
ことは絶対にできないものであるからです。
私は作家です。文学の立場から、その証言をおつたえします。長崎の浦
上の丘で原爆を経験して、今日にいたるまで優れた作品に描き続けてこ
られた、林京子さんの小説で、今月(4月)号の「群像」に載っていま
す。
林京子さんの福島でなにが起こったか、起こり続けているか、の注意深
い受け止めは、直接長崎の被爆につながっています。長崎の苦難をしっ
かり担った人が福島の新しい被爆者の脇に立っていりのです。福島の状
況をつたえる国の役人が、テレビで子どもたちの「内部被曝」という言
葉を使うのを聞いた。そして林さんは涙を流された、かれらは知ってい
たのだ、と。放射性物質が身体に入り込んで、それからずっと引き起こ
す「内部被曝」。林さんの激しい』思いの文章を引用します。
〈幾人かのクラスメートが、被爆者たちが「内部被曝」のために「原爆
症」を発症し、死んでいったのか。原爆症の認定を得るために国に申請
する。国は却下。被曝と原爆症の因果関係なし。または不明。ほとんど
の友人たちが不明と却下されて、死んでいきました。被爆者たちの戦後
の人生は、何だったのでしょう。〉
そうして林さんは福島の新しい被爆者の将来を深く憂えられるのですが、
「フクシマ」が「ヒロシマ」「ナガサキ」を生き延びて来られた人たち
と、はっきり結ばれている。それを見すえて、福島の戦後の人間の生き
方を、私らみながどのようにこの国の将来に思い描くか、に集中してい
られます。おくに子どもたちのこととして。
林さんは不屈の人ですが、4それでも、あるいはそれゆえに、国が、産業
界が、また地方自治体が、そしてフクシマナドナカッタと言いかねない
(フクシマハ終ワッタ、とはもういっています)そうした能天気な政治
家が突っ走る東京の進み方に暗く沈み込まれます。
ところが、その林さんが、昨年7月、代々木公園で脱原発の集会があるの
をテレビで見つけられた。新幹線でひとり出かけられます。引用を続けま
す。
〈駅から公園までの短い距離のなかで、これほど素直で率直な、人々の
「いのち」への思慕ーおもいしたう、ことですーを感じたことはありませ
ん。戦後60数年の年月のなかで、人びとがとった最後の選択なのです。
戦いを生き抜いたわたしたちのバトンは、若い人たちに確かに渡っている。
感動でした。
(中略)
大震災から引きずってきた迷いも、まどわされる揺れも終わりです。浦上
の丘でもらった命一つの謙虚な私に還って、代々木から新しい出発です。〉
広島、長崎での経験につないで、福島を見つめつつ、もう一度放射性物質
子供らを殺させはしない、という意志立つ希望を、私は林さんの声のまま
自分のうちにしっかり取り入れます。
私のいま現在の決意は三つです。広島、長崎、そしてフクシマをナカッタ
コトにしようとする連中と闘う。もう一台の原子炉も再稼働させぬ、その
ために働く。そして、、このデモコースを完走じゃない、完歩することで
す。しっかり歩きましょう。
Posted at 2013/03/13 05:34:25 | |
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