芥川賞、直木賞、受賞のコメントだけ読んでると芥川賞が直木賞で、直木賞が芥川賞のような感じがするのは私だけでしょうか?芥川賞に関しては8月売りの文藝春秋に2作品全文掲載されますので、これ待った方がよさそうですね。直木賞はオール読物でしたっけ?まぁ順繰りいきます。
■直木賞に決まって 東山彰良さん(寄稿)
【2015年7月21日 朝日新聞デジタル】
いつか自分のルーツを探る物語を書いてみたいとずっと思っていた。もちろん、今回
直木賞をいただいた『流』はエンターテインメント作品である。作中にちりばめたエピ
ソードの数々は実際の出来事を踏まえてはいても、そこにはわたしなりの作為や脚色を
ほどこしてある。つまりは虚構なのだ。そのような作品をいくらうまく書けたからとい
って、それで己自身のルーツを探り得たことにはなるまい。
人間のアイデンティティというものは、大雑把に言って三つの層をなしている。一番
下の土台にあるのは、言うまでもなく家族だ。この父親とこの母親の子供がわたしなの
だという揺るぎない認識は、ほとんどすべての人の自己同一性の根幹をなしている。そ
の上に地域に対するアイデンティティが築かれる。異郷で同郷の者に会ったときに親近
感を持ってしまうのはそういうわけだ。そのさらに上に仕事や生き方といった雑多なア
イデンティティが積み上げられてゆく。
台湾で生まれ、日本で育ったわたしは、国家や地域に対する執着が薄い。すなわち、
第二の層がはなはだ曖昧(あいまい)なのだ。台湾にいても、日本にいても、そこはか
とない寄る辺のなさをついつい感じてしまう。どちらの社会にも溶けこめるのだけれど、
けっして受け入れられはしないのだという漠たる不安をいつも抱えている。そんなわた
しに残されている唯一揺るぎない場所が、そう、家族なのだ。
『流』を書いていてとても楽しかったのは、虚構だろうがなんだろうが、つねに自分
の拠(よ)って立つ場所を意識していたからだと思う。ある意味では、この小説は主人
公の葉秋生(イエチョウシェン)が自分の居場所を探し求める物語でもある。そしてそ
の居場所とは、彼にとっても、わたしにとっても、愛する人々がいる場所なのだ。日本
のことがほとんど出てこないこの本がかくも受け入れられたのは、もしかすると秋生や
わたしが感じているようなことを、多くの方々にも感じ取っていただけたためなのかも
しれない。
◇
ひがしやま・あきら 68年、台湾生まれ。03年『逃亡作法』でデビュー。台湾を
舞台にした『流』が第153回直木賞に選ばれた。
Posted at 2015/07/24 09:58:18 | |
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