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POKI@白馬のブログ一覧

2014年05月03日 イイね!

黄色のハスラー

黄色のハスラースズキからハスラーという軽自動車が出てしばらく経ちますが、人気があるらしい。
でも、私にとってのハスラーはTS250からはじまる400ccから50ccまでのバイクです。


そんなハスラーの思い出。

私がバイクの免許を取った時は原付(50cc以下)と二輪の二種類しか無く、しばらくして自動二輪が125cc上下で二種類になりました。ヘルメット着用は「努力義務」であり、フルフェイスヘルメットは憧れの対象です。また、途中から40㎞/hを超える道路でのヘルメットの着用が義務化されましたが、罰則等はありませんでした。
当然原付はノーヘルです。
危険か否かという話とは別に、お決まりの「あぁっ、なんだこのやろーっ!」は当然ついてまわりましたが、総じておおらか?な時代でもありました。当然「三ナイ運動」など影も形もありません。

そんな高2の一学期末試験前、同じ部活のヤツに
「原付とったから通学や出かけるのにバイクが欲しい。バイク選びと価格交渉を。僕と責任をもって付き合ってくれ」
と言われ、授業をサボって六角橋の小汚い小さなバイク屋までCB750から乗り換えたばかりの緑メタのXS650でニケツ。
バイク屋のおっちゃんに「原付の程度が良くて安いのなーい?」と聞いたら、「昨日買い取ったばかりのハスラーがある、整備無しで自分で廃車手続きしてナンバーを取ってくるなら値札の1万引きでいいよ、自賠責も半年残ってる」とのありがたいお言葉。
ヤツも黄色のハスラーに一目惚れしたらしく、速攻、タンデムで区役所を2件ハシゴしてナンバーを手に入れ、友人宅へ貯金通帳を取りに行き、銀行でバイク代をおろして、また六角橋へ。
さて乗って帰ろうという段になって
クラッチ付に乗ったことがない!、という事実判明!!
それでは特訓を、と自分のXS650を幼稚園の時から出入りしている知り合いの教会に預かってもらい、原付ハスラーに二人乗りで新横浜の広大な空き地まで、裏道をつかってコソコソと走っていきました。
そのころの新横浜の駅周辺はポツンとボーリング場があり、何件かは建築中で、鉄条網に仕切られた空き地と、かろうじて舗装されている工事用道路だけがある、寂れた場所でした。
なんでこんな辺鄙な場所に新幹線の駅が?という感じ。

さて練習開始。
左のレバーがクラッチ、右のレバーが前ブレーキ、左足がシフト、右足が後ブレーキ、簡単に機能と構造のガイダンスをおこない、さて実地訓練。
シフトを1速へ踏み、アクセルを軽くあけて、クラッチをゆっくりつなぎながらブレーキを放して、と

パイーーン、クワッ、ガッシャーン

見事なウイリー&ぶっ飛びコケ、大の字で地面に寝てました。
足をおっぴろげ、メガネをすっ飛ばし、髪はみだれ、スカートは頭までまくれ・・・・
そう、同じ部活のヤツは女の子。
あちこち擦り傷だらけ、「大丈夫か?」と聞けば
「初体験で痛い!、出血したー!」
「責任とって! キズモノになった・・・おまけにスカートの中までじっくり見て!!」
「責任もって付き合えって言ったじゃん!!」

ん?話が見えない。言いがかり?


実は彼女、まあまあ美形なのだが、「虫よけ」と称して髪の毛はボサボサで顔が隠れるようにし、太い黒縁のメガネをかけてツケマツゲをしているようなクリクリ目玉をかくし、ヤンキーのようにマスクをし、入学したての中学生みたいにダサく服を着こなして、自分のことを僕と話し、男言葉で会話し、ときおり「女王様」とお呼びと言い、男子全般にはツケツケと嫌味まじりでそっけなく話をし、でもそんなカモフラージュは男子高校生達の魔眼には効果がなかったように思う。
自意識過剰な、今で言うフシギチャン系ツンのみ?
Dr.スランプアラレちゃんがリッパに育ってダボダボの制服着てマスクをしてる?
「あいつシャンだね、ただしチャンとすれば」とは巷の噂。
「近寄るな」オーラが張り巡らされ、手酷い攻撃が予想されるため、誰も手をださなかった。

ホイホイと呼び出され、同じ部活の気安さで尻尾を振ってついて行き、しかも怒られ脅された!

それでもほのぼのと19時頃まで特訓は続き、よたよたと走る彼女のバイクと併走して家まで送り、
「バイクを教えていて、怪我をさせてしまいました」
と迎えに出てきた彼女の両親にお詫びをし、辞去するタイミングを失い、晩ご飯をごちそうになり、妹には
「お姉ちゃんの彼氏が来たー」
と騒がれ、食後のコーヒーをいただき、尋問を受け、帰り際に父君から
「娘が初めて連れてきた君なのだから余計な心配は無いと思うが、マジメな付き合いをするように。いずれ君のご両親にはご挨拶に行く」
というこれ以上無い脅し文句。
薄汚い格好をした、そのころ不良のトレードマークの長髪で、しかも’でっかいバイク’乗りに、いきなり親公認宣言、驚愕の展開。
自分が娘の親なら門前払いで塩撒き。

その後、
擦り傷と打撲の責任をとって「マジメなお付き合い」は続き、楽器を持たないときはいつもタンデムで、渋谷の教会地下へ出かけ、清志郎さんに呼ばれ宮益坂にあった音楽喫茶に行き、吉祥寺まで一緒に遠征し、外国バンドのコンサートに行き、コンサートやTV局の袖で見ていてくれたり、夏にはサーフィンで水着姿を鑑賞させていただき(お触りなしよ)、125ccのレースのときはパドックで見守り、たまには2台で相模湖や箱根や伊豆や河口湖へツーリングをし、冬は彼女の親の田舎でスキー。


楽しい時間はあっという間に経ち、彼女からの長い長い薄い文庫本一冊ほどの三行半(みくだりはん)。


これが「ハスラー」の私の思い出。
Posted at 2014/05/03 22:41:37 | コメント(1) | トラックバック(0) | 高校時代 | 日記
2012年08月02日 イイね!

8月の思い出



1971年の8月6,7日に成城学園の乗風台特設ステージでおこなわれた、箱根アフロディーテ。
「ウッドストック」に続けとばかりに、野外ロックフェスが箱根で開催されると聞き、生意気盛りの自称ロックの申し子は、気合い満点で見に行った。

長いサウンド・チェックの後、デイブ・ギルモアの「OK! Here we go!!」
バイクの効果音から、響き始めるピンクフロイドの「原子心母」に感動!!
ギターの「泣き」の音に吸い寄せられるように、霧がステージへむかう。

そういえばピンクフロイドで初めて「PA装置」というものを見た。記憶に間違いがなければ「WEM」?
PAの使用も日本では初ではないかしら。

2日間、CB750の傍らでコッペパンと水と寝袋ですごした「箱根アフロディーテ」の総評は、行くんじゃなかった。知りたくなかった。

谷ステージで「成毛滋 &つのだひろ(ストロベリーパス)」が出るというので見に行ったら、ベースは生意気そうな同年代のガキ。
武蔵工業の高中というヤツか。上手い、と聞いていたがこれほどとは。
しかもステージの上と下。こいつは大違いの世界。
やはり、ピアノができても高校からギターを始めたのでは追いつかないか、イヤ追い越してみせる。
その後、追い打ちを掛けるように、品川に「竹中尚人(チャー)」なぞもいることを知る。




高校時代の、8月の思い出。
















結局、音楽の世界では、どうにもならず、かなわず、タダのカスとなって、「ギターが趣味のおじさん」的現在に至る。
Posted at 2012/08/02 12:45:17 | コメント(3) | トラックバック(0) | 高校時代 | 日記
2012年07月06日 イイね!

SPAIN

雨が強くなってきました。
明日は休工かな?

またクルマの話ではありません。
最近クルマのネタが無い!
BRZオーナー向けミニカーのお知らせと、軽耐久の車両のカラーリングぐらい。

密林のお勧めで、あたらしいチック・コリアのアルバムがあったので、また昔の事を思い出した。


チック・コリアの「SPAIN」を聞いたのは、高校の視聴覚室であった。
たちの悪い、師と仰ぐ?音楽の教師が持って来たレコードだ。
私にいろいろな音楽の世界を教えてくれた。

生意気にも横浜駅前の紅茶専門店でデート?もした。
情報交換で私もプログレのあれこれや、パープルやベック等のレコードを貸したり。
音楽の講義では3年にもなると得意分野に分かれたりしていたので、私は自分では楽なピアノ。
音大をでた彼女よりは上手いと自惚れていたし、先生も可愛らしかったので。

先生の聞かせてくれた「Light as a Feather」というアルバムの「SPAIN」に度肝をぬかれた。
ロック等のブルースコードとは異なる、12小節のテーマ部は、Gmaj7から始まり展開してF#7 Bm B7と収束する。
そのコードと旋律のつながりが心地良かった。
早速、ピアノでコピーをした。

ある日クラシックギター部の友人が、LPを貸してくれ、と言ってからしばらくして「SPAIN」を弾き始めるようになった。
彼はフラメンコギターをやっていたのだが、学校ではクラシックギター部しかなかったので致し方なくクラシックギターをやっていたのだ。
肩より長く伸びた長髪を振り乱して弾く「SPAIN」がカッコ良かった。
早速、二人で弾くパート構成に挑戦した。
スパニッシュの弾き方は彼から教わったのである。

二人で弾く「SPAIN」は、その音楽教師の前以外では人前で披露することもなく、受験勉強とバンド活動へと分かれていった。

演ろうと思っていて、出来なかった「SPAIN」。
スーパートリオのライブをどうぞ!
長いので気合いをいれて聞いてください。



本家Chick Coreaの「SPAIN」は上原ひろみとのコラボで
Posted at 2012/07/06 21:59:25 | コメント(1) | トラックバック(0) | 高校時代 | 日記
2012年05月15日 イイね!

沖縄から来た少女

沖縄から来た少女今日で沖縄復帰40年になったという。
「沖縄」で最初に思い浮かぶのは、復帰の年の二学期に編入してきた少女。

それまでの「沖縄」の印象は、基地の島、朝鮮戦争、ベトナム戦争、岸根基地に飛び交うヘリコプター、瑞穂埠頭。
沖縄から親の移動(軍医?)で横浜にやってきて、アメリカンスクールに行かず、同級生となった変なアメリカ野郎。

二学期の始業日早々、変人の集う視聴覚委員会兼放送部を希望。
「この委員会をよく知らないと思うけど、前任者からの注意事項は無かった?」
「ありません!、喜んで譲ってくれました。この高校の視聴覚と放送部は有名なんですって?。わたし放送関係希望なんです」
「う~ん。まーある意味有名だけど、君の思っているような事ではないと思うけどな。どちらかというと特定の分野での実践力とクオリティは高いと思うけど」
「あのー、わたしクラブは掛け持ちですけど、いいですか?」
「ああ、かまわないよ。ただし緊急招集には必ず駆け付けること。ところで、掛け持ちする部活は?」
「陸上部です!。緊急招集ってなんですか?」
「そのうちわかるよ。あっ名前は」
「Ganaha Yです」
「Ganaha?」
「我那覇って書きます。沖縄から引っ越してきました」

はじめて聞く名字。沖縄と聞いて納得する日に焼けた肌。体育会系の締まった肢体とショートカット。
珍しく、午前中から学校にいた私との初めての会話。

その時の自分はパーマが失敗してアフロ頭。廻りの連中はハマトラか、長髪と無精ヒゲ。
女性陣はむろんパーマでロンタイ・ハマトラが多数派。あとは今でいう不思議ちゃん。
横浜でも進学校ではあったけど、70年安保後のけだるい世代。
音楽とバイクが世界の中心だった。

健全すぎるほど浮いた存在の少女。



その少女とだいぶ打ち解けたと思った頃、日曜のお出かけに誘った。
バイクに乗れるよう、暖かい格好で来るように」

その当日、熱がでた。怠くて起き上がれない。
少女の家へ電話した。もう出かけた後。
友人へ電話をかけた。「彼女に今日はキャンセル、ゴメンと伝えてくれ」
その後、沈没。
三日後に学校へいった。

友人と少女が楽しそうに語らっていた。



私の「沖縄」から想起される一番の記憶。
Posted at 2012/05/15 22:06:55 | コメント(1) | トラックバック(0) | 高校時代 | 日記
2012年03月03日 イイね!

スバル・360(叔父の思い出)

スバル・360(叔父の思い出)1968年の夏休み、カゲでこそこそ悪い事をしている優等生の皮をかぶった生意気盛りの中学生の私はスバル・360の助手席に乗っていた。
前年に完成した東京環状線を一周してから運転している叔父(母の弟)の勤めていたテレビ局へ向かった。編集前の映像を見せてもらうという約束をしていた。
(叔父の影響かドキュメンタリーに興味があり、前から見学の「お願い」をしていた)
叔父はスバル・360が発売(1958年)されて以来のスバルオーナーで、この頃は業界人?らしく緑色のBMW1600-2(だったと思う)も所有していたが、普段の足はもっぱらスバル・360であった。
サングラスをして運転している叔父は業界人のオーラもあり、カッコよかった。
叔父を見ながら、かっこいい大人になりたい、と思った。「カッコ良さ」とは何か、ということも判らないまま。

運転している叔父から
「おい○○高校にうかって免許をとったらこのヤングSSをやるよ」
「生麦のおじさんの所にいってはクルマをコッソリ乗り回しているんだって?軽の免許をとったらこのクルマをやるからもう止めろよ!」と静かに言われた。
・・怖かった。圧力があった。
「わかった。高校に入って免許をとるまでバイクもクルマも乗り回さない」と答えた。

が、その年の9月、軽自動車の免許は普通自動車に統合され16歳では軽免許がとれなくなった。
叔父は免許の改正を知っていたと思われるので、騙されたのである。
このころの私は成績が良いためか先生のうけが良く、大人をバカにしていた。カゲでは相当悪い事もしていた。クルマやバイクも親友(悪友)達と盗んでは乗り回していた。
クルマがもらえるなら、と子供ながらの計算も働いていたと思う。

結局、手に入れることができなかった「スバル・360 ヤングSS」はこうして叔父の姿と共に記憶に残るのである。

余談であるがこの時、編集作業をしていた牛山純一氏と叔父はその後日本テレビより独立して「日本映像記録」をたちあげた。
叔父が牛山氏と独立した理由は「出世したらTVカメラが持てなくなる」というものであった。
「すばらしい世界旅行」「知られざる世界」は牛山氏とドキュメンタリーカメラマンである叔父の作品である。 (叔父のアルバイトということでニューギニアやらアラスカやら引きづり回されたのは映像記録でのこと)

1997年、牛山氏が亡くなった後、叔父は会社を退職した。牛さんがいないから、ということで。
年齢的な衰えもあったのだと思う。

癌で亡くなる前の叔父を見舞った時、スバル・360の話が出た。
「だましたようで悪かったな」
「とりあえずハイと言っておけばスバルが手に入ると思いました」
「そうだろうと思った。ハ、ハ、ハ」

病床に横たわる叔父の手には新しいライカM8がにぎられていた。
Posted at 2012/03/03 21:17:22 | コメント(5) | トラックバック(0) | 高校時代 | 日記

プロフィール

「この連休は孫娘2匹のスキー教習。ひと月ほど前に人生で初めて膝を壊し、右膝が痛むのでボーゲン無し。ギルランデとフェイキーを駆使してスキーのお供。これだと足がそろっているのであまり痛まない。」
何シテル?   02/25 07:28
POKIさんの将来の夢  小学校:ピアニスト   中学校:お医者さん    高校 :ミュージシャンorバイクレーサー     大学 :研究者orヨット乞...
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