2012年10月28日
○1969年1月神戸市に生まれる
○幼稚園 幼い頃はとにかく泣き虫であった。
最初の転機:みんなで音楽界の練習をやった後、ひとり先生に残された。
怒られるものだと思っていたら、音楽界の「指揮者」をやるようにいわれ
みんなが帰った後、ひとり練習した。
この時初めて「自分は他の子達とは違う」という「うぬぼれ」を持つようになる
○小学校 1975年 神戸市立の小学校に入学。
小1の冬、小児腎炎を発病。小学生の間に、計3回の長期入院を経験。
1回目、小2で退院した後も運動は禁止。外を歩くときはなるべく日陰をとおること。
太陽の光を浴びるだけでも体力を消耗し、腎機能を低下させる恐れがあるため。
2回目、入院中、当時のある看護婦さんに
「あなたは、運動ではもう他の子達に勝てないから、勉強で一番になりなさいね」といわれる。
勉強は嫌いではなく、むしろ好きだったので、勉強はがんばった。
「泣き虫」「びびり」「こわがり」という内面を見せないようになる。
3回目入院、小5になる時、父の仕事の都合で横浜に引っ越すことが決まった。
横浜の病院に引き継いでもらうため、小4の終わりから小5のはじめまで検査を兼ねた入院。
腎生検を行う。この時、左右の腎臓から本来は膀胱にそれぞれ1本ずつ出ている管が
途中で1本になってしまっていることが判明。
1979年 小学5年5月に
横浜市立の小学校に転校。
関西弁、色白で細い、校庭に出ない、定期的に通院で学校を休む。
これらのことで、目立った存在となる。
○中学校
1981年 神戸市立の中学校に入学。
2つ上の兄がおり、兄は野球部でスポーツ少年、勉強もできる。
そんな兄と、最初は比べられてしまう。こちらは勉強はできるが色白で虚弱。
中1の体育の教師は、自分が体調の悪いときに体育を休んだり、水泳を医者から
禁止されていても、できる時には一生懸命にやったためか、5段階の成績で
「5」を付けてくれた。
その先生が移動になり、新しくきた若い教師は、同じことをしているのに「3」という評価。
高校入試 前述の兄が、学区でトップの高校に入ったため、自分も同じ高校を受験。
この時、自分が極度の緊張症であることを実感する。
周りが知っている人ばかりの学校のテストでは何の緊張もしなかったのに
見知らぬ人の中に入ると、舞い上がってしまい、よくわからないまま入試を終えてしまった。
滑り止めも受けていないし、どうしようかと気に病んだが、結果は合格。
定員割れで、追加募集試験を行うほどだったらしい。
○高等学校
1984年 神奈川県立の高等学校に入学。
1年の時のクラスが自分と同じ中学出身者が過半数を占めるという、偏ったクラスで、なぜか みんなが打ち解けるまで、自分のことがネタにされる。
相変わらず体育は、体調のすぐれないときは見学。
水泳は医師の許可が出たものの、小、中と泳いだことのない自分が泳げるわけもなく、
また体育教師も指導してくれるわけではなく、ただプールを歩いてすごす。
冬は学校の周囲3周走らされたが、体力のない自分は授業時間ないぎりぎりでゴール。
疲労が回復せず、次の授業など聞く余裕もなし。
部活は、あまり走ることのない運動部、皆が始めて経験する競技いうことで、
アーチェリー部で活動。
この頃、腎臓病の定期検査で通っていた病院の担当医がたまたま休みで、
代わりの医者に
「君の病気は一生治らない。今は軽度のものだが、将来人工透析を受けなくてすむよう悪化
させないこと」
と初めて知らされる。
大学入試が近づいた頃、担任の教師に「体育の成績さえ良ければ、いいところ推薦できるん
だけど、この成績だと、北関東の国立大なら推薦いけるぞ。どうする?」
といわれたが、もうすこし上の大学にいけるという「うぬぼれ」があり、そのお話を断る。
結局受けた大学は全部不合格。
学校のテストでは範囲というものが決まっていて、その範囲の内容を他人に説明できるほど
記憶できた。しかし、入試には対応できず。
本当に「できる人」は普段の学校の勉強はほどほどにやっていても、必要時には、
本来持っている(もちろん努力もしているのであろうが)レベルの違う「記憶」「理解」「応用」
ができるのだと知った。
それまで、部活でがんばっていた人達が、東大、京大、東工大、早・慶・上智、
有名国公立大学へと進んでいった。
自分は一浪し、予備校に通う。
○大学時代
1988年 明治大学 工学部 精密工学科に入学。
あいかわらず、決められた範囲のテストは得意で、成績は良かった。
しかし、将来のことは、まだ真剣には考えてはいなかった。
Posted at 2012/10/28 12:14:26 | |
トラックバック(0) | その他