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お茶犬おじさんのブログ一覧

2007年06月09日 イイね!

『F1全史』 -1971- J.スチュワートの時代

『F1全史』 -1971- J.スチュワートの時代カナダGPフリー走行まであと2時間。明日は予定が無いから予選まで付き合うか。
となると夜は長い。『F1全史』でも書くか。1971年だ。
私がモータースポーツ、特にF1に本格的にのめり込んでいったのがこの年からだ。だから私の最初のヒーローは言わずと知れたこの人である。

この年のチャンピオンはJ.スチュワート。チームはタイレル。私達の世代で“ティレル”なんて発音したら潜りである。“タイレル”、これが正しい。

マーチ製シャシーで1970年を戦ったタイレルであるが、極秘裏にオリジナルF1計画を進めていた。新参チームであるがデレック・ガードナーの設計によるマシンは非常に実戦的で戦闘力も高く、スチュワートもやる気満々だった。そして年間6勝を上げ圧勝。圧倒的だった。

シーズン途中からエンジン上部にインダクションボックスを設け、スポーツカーノーズも採用し戦闘力はますます上昇した。開幕前に優勝候補と目されていたフェラーリはJ.イクス、C.レガツォーニ、M.アンドレッティを揃える強力な布陣だったが、タイレルの敵とはなり得なかった。

この年、スーパースウェード、R.ピーターソンがデビューする。この天才ドライバーのその後は皆様ご存知の通りだが、当時は今のハミルトン並みの“驚異の新人”だった。私は今でも当時のAUTO SPORTの特集を思い出す。

この年も何人かのドライバーが命を落とす。フェラーリ512Mを駆っていたP.ロドリゲス、ドイツのスポーツカーレースで死亡。私も観戦した1969年の日本GPにも来日したポルシェの使い手J.シファート(F1全史ではJ.シフェールと表記されているが、私達の年代ではJ.シファート、これが正しい)もブランズハッチでのF1ノンタイトル戦で死去。

そしてこの年、オーストリアGPでデビューしたN.ラウダに注目した者は皆無に近かった…
Posted at 2007/06/09 21:09:01 | コメント(3) | トラックバック(0) | F1全史 | クルマ
2007年05月19日 イイね!

『F1全史』 -1970- 天国のチャンピオン

『F1全史』 -1970- 天国のチャンピオン風邪の微熱で頭がボーっとしています。
寝込むほどではないのでPCの画面をぼんやり見つめています。

そこで久々に“F-1全史”シリーズでもやってみよう。
7ヶ月ぶりです(笑)。やっと1970年に突入。

ヨッヘン・リント。言わずと知れた、天国でF1チャンピオンになった男。

それまで最速ドライバーのひとりと言われながら、なかなか勝てなかったリントだが、前年秋のアメリカGPで初優勝を遂げると、堰を切ったように勝ち始める。第3戦モナコから第8戦ドイツの間に5勝をマーク、ぶっちぎりだ。
途中からロータスが投入した革命的マシン、ロータス72との相性も良く、第10戦イタリアGPで早々と彼のチャンプが決まる筈だったが…

予選初日のパラボリカで彼は逝ってしまった。

この年も多くのF1ドライバーが命を落としている。
リントの他にも、ギュンティがフェラーリ312PB(懐かしい!)を駆ってトップ走行中にマートラと激突。マクラーレンの創始者、B.マクラーレンがCAN-AMのテスト中に事故死。オランダGPではピアス・カレッジが亡くなっている。そういう時代だったのだ。
私はこの年中学生になったばかりだったが、F1ドライバーになったら3人に一人は死ぬものだと本気で思っていた。

コンストラクターとしてのマーチが誕生したのがこの年。4人の創始者(ロビン・ハード/マックス・モズレー/アラン・リース/グレアム・コーカー)の頭文字を取って名づけたチーム名だということは近年知った。モズレーはこの頃から頑張ってたんだね。
ケン・タイレル(敢えてこう発音する)がタイレル・チームを旗揚げしたのもこの年。

さて、シーズンの話に戻る。リント亡きあと、フェラーリのイクスが追い上げ、計算上は逆転も可能な状況となる。アメリカGPで2位を走っていたイクスは燃料系トラブルでピットイン。あきらめないイクスは12位から驚異的な追い上げを見せトップに迫る。
が、勝ったのはロータス72に乗る新人フィッティパルディ。後輩の活躍により、リントのチャンピオンが決まった。

コーリン・チャップマンに再び笑顔が戻った。
Posted at 2007/05/19 22:09:42 | コメント(4) | トラックバック(0) | F1全史 | クルマ
2006年10月15日 イイね!

『F1全史』 -1969- 新“フライング・スコット”誕生

『F1全史』 -1969- 新“フライング・スコット”誕生私も観戦した、日本GPにおけるTNTの対決で最高潮に盛り上がった国内モータースポーツですが、F1の世界は3リッターF1の安定充実期でした。

前年、巨星J.クラークを亡くしたF1界でしたが、新たなスターが誕生します。ジャッキー・スチュワート(当時30歳)。ジャッキーは前年度チャンピオンシップ2位とデビュー5年で安定した力を発揮。遂にこの年チャンピオンに輝きます。(11戦6勝)
マシンはマートラ(当時のAUTO SPORTでは“マトラ”と表記していた筈ですが、F1全史に合わせて“マートラ”とします)。この年はフォードDFVを用いるロータス/ブラバム/マクラーレン/マートラの4チームの戦力が拮抗し、見応えのある戦いが随所で演じられました。

私にとってのトリビアは、ジャッキー操るマートラが本家フランスのワークス・マートラではなく、イギリスのケン・ティレル率いるマートラ・インターナショナルからの参戦だった事。ここからティレルとスチュワートの関係が深まっていくのですね。

この年目立ったドライバーはオーストリア人、ヨッヘン・リント。翌年悲劇のチャンピオンとなるリントは、デビュー当時から荒削りながら圧倒的なスピードを披露していましたが勝利に結びつかず、終盤戦アメリカGPで遂に優勝、前年チャンピオンでチームメイトのG.ヒルの影を薄いものにしていきます。

また、この年は巨大なウィングが流行した年でしたが、脱落の危険性とその際の大事故が多発し、シーズン途中で小型のローウィングに変更するようレギュレーションで規制されます。
4輪駆動のF1マシンを各チームが試作したのもこの年ですが、結局使い物にならず、レギュレーションでも禁止されて現在に至ります。


【Back Number】
1969 新“フライング・スコット”誕生
1968 ヒル+ロータスの弔い合戦
1967 名機コスワースDFV登場。そしてHONDA大逆転優勝。
1966 3リッター化による混戦を老練ブラバムが制す!
1965 クラーク2度目の王座と、HONDA奇跡的勝利
1964 サーティーズ劇的チャンプ。ホンダ“日の丸部隊”がF1初挑戦
1963 10戦7勝、天才クラークの快進撃
1962 GPを変えたモノコックとV8パワー
1961 F1史上最悪の惨事
1960 ブラバム+クーパーが2連覇
1959 突如訪れたミッドシップ革命
1958 ホーソンとモスの1点差の死闘
1957 ファンジオ5度目の王座獲得
1956 F1史上に残る美談
1955 死亡事故が相次いだ悲劇の`55年
1954 F1の歴史に異彩を放つストリームライナー
1953 日本人初のF1GP観戦者は天皇陛下!!
1952 F2規定で争ったF1
1951 “母親を殺した”フェラーリ 
1950 無敵アルフェッタ艦隊
Posted at 2006/10/15 14:26:02 | コメント(1) | トラックバック(0) | F1全史 | クルマ
2006年10月01日 イイね!

『F1全史』 -1968- ヒル+ロータスの弔い合戦

『F1全史』 -1968- ヒル+ロータスの弔い合戦偉大なドライバーの死は、ファンにとって希望の灯を消されたような例えようの無い悲しみをもたらします。
1994年のセナの例を出すまでも無く、巨星が落ちた時は、レース界は次の行き場を見失ったかの様な重苦しい空気が流れるものです。

1968年4月7日。私はこの事故を2年前から愛読していたMotorFan誌上で知りました。今のようにF1の情報が満ち満ちている時代ではなく、インターネットなど勿論無い。
1968年は日本GPで怪鳥日産R381が優勝した年でした。ワークス対決の日本GPへの関心は高かったが、フォーミュラは全くマイナーな当時の状況。

そんな中でも、このクラークの事故死の記事を読んだ時には背筋が凍りました。レーサーの死を初めて体感した時でした。J.クラークの事は詳しくは知りませんでしたが、彼がどれだけ偉大なレーサーであるかは肌で理解していました。
享年32歳。私が小学4年生の時のことです。


この年の初戦1月1日の南アフリカGPでクラークは圧勝。ロータスの耐久性も改善され、この年のチャンピオンは大本命J.クラークと誰もが思っていましたが、第2戦以降クラークは居ない。
それをチャップマンと供になって、クラークの弔い合戦を見事に勝ち取ったのがロータスのNumber.2のG.ヒル。39歳の自身にとっては2度目、ロータスにとっては3度目の王座でした。

この年のトピックスとしては、ロータスが初めてスポンサーの概念をF1に持ち込んだこと。ブリティッシュ・グリーンを捨て、ゴールドリーフ・カラーをまとったロータス49はサーキットの景色を変えました。
ウィングを初めて導入したのもこの年のロータス。チャップマンの才能は、メカニカル面だけでなく様々な分野でF1を変えていきます。
DFVが多くのコンストラクターに供給されるようになったのもこの年から。その後のDFVの足跡はご存知の通り。


※世界中が彼の死を惜しんだ。セナの死に匹敵する衝撃をレース界に投げ掛けたそうだ。
63、65年チャンピオン。72戦25勝(勝率34.7%)、ポールポジション33回は当時としては圧倒的な数字。

【Back Number】
1969 新“フライング・スコット”誕生
1968 ヒル+ロータスの弔い合戦
1967 名機コスワースDFV登場。そしてHONDA大逆転優勝。
1966 3リッター化による混戦を老練ブラバムが制す!
1965 クラーク2度目の王座と、HONDA奇跡的勝利
1964 サーティーズ劇的チャンプ。ホンダ“日の丸部隊”がF1初挑戦
1963 10戦7勝、天才クラークの快進撃
1962 GPを変えたモノコックとV8パワー
1961 F1史上最悪の惨事
1960 ブラバム+クーパーが2連覇
1959 突如訪れたミッドシップ革命
1958 ホーソンとモスの1点差の死闘
1957 ファンジオ5度目の王座獲得
1956 F1史上に残る美談
1955 死亡事故が相次いだ悲劇の`55年
1954 F1の歴史に異彩を放つストリームライナー
1953 日本人初のF1GP観戦者は天皇陛下!!
1952 F2規定で争ったF1
1951 “母親を殺した”フェラーリ 
1950 無敵アルフェッタ艦隊
Posted at 2006/10/01 09:27:19 | コメント(2) | トラックバック(0) | F1全史 | クルマ
2006年09月24日 イイね!

『F1全史』 -1967- 名機コスワースDFV登場。そしてHONDA大逆転優勝。

『F1全史』 -1967- 名機コスワースDFV登場。そしてHONDA大逆転優勝。この年は私に取っては記念すべきレース初観戦の年。霧の富士スピードウェイでトヨタ2000GT、S800が3台連なってのゴールシーンを観て感動した小学3年生でした。

さて、1967年のセンセーションは何といってもコスワースDFVの登場です。フォードからの依頼を受けてコスワース・エンジニアリングが作り上げたエンジンは、当時F2で常勝エンジンだった1.6リッター直列4気筒エンジンのFVAのノウハウを生かして製作されたもの。
搭載するチームは、フォードと密接な関係があったロータスチームとなりました。
DFVがその後市販F1エンジンとして多くのチームの手に渡り、実に長きに渡ってF1を席巻し続けたことは説明の必要は無いでしょう。

美しくスマートなロータス49と組み合わされた新エンジンは、クラークの手により11戦中9戦でポールポジションを得ると言う圧倒的な速さを披露。しかし、ロータスの信頼性の無さにより、4戦で優勝したものの5戦でリタイアし、チャンピオンを取るまでには至りませんでした。

この年のチャンピオンはブラバムのナンバー2、デニス・ハルムでした。優勝は2度だけだったものの、殆どのレースで確実にポイントを重ね、師匠ジャック・ブラバムを抑えてチャンピオンに輝きました。

忘れてならないのは第9戦モンツァにおけるHONDA/サーティーズの劇的勝利です。
最終ラップ、トップを争うホンダとブラバムの2台が最終高速コーナーのパラボリカに飛び込みます。この時、ヒルのロータスがこぼしたオイル処理跡に乗ったブラバムが姿勢を崩してアウトに大きくはらみます。ホンダのサーティーズはこれを突いてインに飛び込み、最終ストレートに向けて加速! これを追うブラバムも軽量ボディを利してぐんぐん加速。チェッカーフラッグが振られた時点でその差は僅か一車身。こうしてHONDAは通算2勝目、3リッター化されて初勝利を新型RA300の緒戦で劇的な勝利として飾ったのでした。

※写真は、スターの風格漂う“フライング・スコット” ジム・クラーク31歳。チャップマンを信じ、8年余りのGPのキャリア全てをロータスとともに過ごしたクラークの円熟期。

【Back Number】
1969 新“フライング・スコット”誕生
1968 ヒル+ロータスの弔い合戦
1967 名機コスワースDFV登場。そしてHONDA大逆転優勝。
1966 3リッター化による混戦を老練ブラバムが制す!
1965 クラーク2度目の王座と、HONDA奇跡的勝利
1964 サーティーズ劇的チャンプ。ホンダ“日の丸部隊”がF1初挑戦
1963 10戦7勝、天才クラークの快進撃
1962 GPを変えたモノコックとV8パワー
1961 F1史上最悪の惨事
1960 ブラバム+クーパーが2連覇
1959 突如訪れたミッドシップ革命
1958 ホーソンとモスの1点差の死闘
1957 ファンジオ5度目の王座獲得
1956 F1史上に残る美談
1955 死亡事故が相次いだ悲劇の`55年
1954 F1の歴史に異彩を放つストリームライナー
1953 日本人初のF1GP観戦者は天皇陛下!!
1952 F2規定で争ったF1
1951 “母親を殺した”フェラーリ 
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Posted at 2006/09/24 12:37:51 | コメント(2) | トラックバック(0) | F1全史 | クルマ

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9歳の時に国産主要車種のスペックを全て丸暗記。スーパーカー世代なんかにゃ負けないよ。初めてレース観戦したのもこの歳、以降40年レースは私のお友達。1976年富士...
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