偉大なドライバーの死は、ファンにとって希望の灯を消されたような例えようの無い悲しみをもたらします。
1994年のセナの例を出すまでも無く、巨星が落ちた時は、レース界は次の行き場を見失ったかの様な重苦しい空気が流れるものです。
1968年4月7日。私はこの事故を2年前から愛読していたMotorFan誌上で知りました。今のようにF1の情報が満ち満ちている時代ではなく、インターネットなど勿論無い。
1968年は日本GPで怪鳥日産R381が優勝した年でした。ワークス対決の日本GPへの関心は高かったが、フォーミュラは全くマイナーな当時の状況。
そんな中でも、このクラークの事故死の記事を読んだ時には背筋が凍りました。レーサーの死を初めて体感した時でした。J.クラークの事は詳しくは知りませんでしたが、彼がどれだけ偉大なレーサーであるかは肌で理解していました。
享年32歳。私が小学4年生の時のことです。
この年の初戦1月1日の南アフリカGPでクラークは圧勝。ロータスの耐久性も改善され、この年のチャンピオンは大本命J.クラークと誰もが思っていましたが、第2戦以降クラークは居ない。
それをチャップマンと供になって、クラークの弔い合戦を見事に勝ち取ったのがロータスのNumber.2のG.ヒル。39歳の自身にとっては2度目、ロータスにとっては3度目の王座でした。
この年のトピックスとしては、ロータスが初めてスポンサーの概念をF1に持ち込んだこと。ブリティッシュ・グリーンを捨て、ゴールドリーフ・カラーをまとったロータス49はサーキットの景色を変えました。
ウィングを初めて導入したのもこの年のロータス。チャップマンの才能は、メカニカル面だけでなく様々な分野でF1を変えていきます。
DFVが多くのコンストラクターに供給されるようになったのもこの年から。その後のDFVの足跡はご存知の通り。
※世界中が彼の死を惜しんだ。セナの死に匹敵する衝撃をレース界に投げ掛けたそうだ。
63、65年チャンピオン。72戦25勝(勝率34.7%)、ポールポジション33回は当時としては圧倒的な数字。
【Back Number】
1969 新“フライング・スコット”誕生
1968 ヒル+ロータスの弔い合戦
1967 名機コスワースDFV登場。そしてHONDA大逆転優勝。
1966 3リッター化による混戦を老練ブラバムが制す!
1965 クラーク2度目の王座と、HONDA奇跡的勝利
1964 サーティーズ劇的チャンプ。ホンダ“日の丸部隊”がF1初挑戦
1963 10戦7勝、天才クラークの快進撃
1962 GPを変えたモノコックとV8パワー
1961 F1史上最悪の惨事
1960 ブラバム+クーパーが2連覇
1959 突如訪れたミッドシップ革命
1958 ホーソンとモスの1点差の死闘
1957 ファンジオ5度目の王座獲得
1956 F1史上に残る美談
1955 死亡事故が相次いだ悲劇の`55年
1954 F1の歴史に異彩を放つストリームライナー
1953 日本人初のF1GP観戦者は天皇陛下!!
1952 F2規定で争ったF1
1951 “母親を殺した”フェラーリ
1950 無敵アルフェッタ艦隊
Posted at 2006/10/01 09:27:19 | |
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