関ヶ原古戦場・長宗我部盛親陣跡〔栗原山〕(垂井町)
土佐国主・長宗我部盛親が陣を構えた栗原山
2007年04月09日
長宗我部(長曽我部)盛親は土佐を領する長宗我部元親の四男として生まれました。
天正14(1586)年、戸次川の戦いで元親の嫡子信親が戦死した後、四男にもかかわらず跡継ぎに選ばれました。
慶長4(1599)年、元親が亡くなると家督を継ぎました。
翌年の関ヶ原の戦いでは、盛親は西軍につき6千人の兵とともに栗原山麓に陣を構えました。
吉川広家の内通により傍観軍となり西軍が敗北すると、戦わずして退却しました。帰国途中、牧田川金谷にて松ノ木城主徳永寿昌や今尾城主市橋長勝との間に戦いがありました。
帰国後、井伊直政を通じ、徳川家康に謝罪しましたが、家臣久武親直の讒言から兄津野親忠を殺害してしまったため、土佐一国を没収され浪人となりました。京で大岩祐夢と名前を変え寺子屋の師匠などをしていたそうです。その後、大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城しました。夏の陣の八尾の戦いなどで活躍しましたが、敗戦後捕らえられ京で斬首されました。
栗原山東麓に陣跡があります。
場所は分かりにくいですが、県道215号養老垂井線の東側に八幡神社がある道を西へ向かいます。農道というか里道のような道です。山に入るとすぐ陣跡があります。
ここから山側にさらに進むと、栗原九十九坊や竹中半兵衛が隠棲した跡地などがあるようです。
Photo Canon EOS 30D
H19.3.27
住所: 岐阜県不破郡垂井町
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