田中孫作生誕地(米原市・旧近江町)
山内一豊、千代夫人の家臣、田中孫作生誕地
2007年08月05日
山内一豊、千代夫人(見性院)の家臣として見事な働きをして、山内家が土佐一国の大大名に出世するのに功績のあった田中孫作定重は近江高溝村の出身です。
関ヶ原の戦いの前、山内一豊は徳川家康に従って上杉景勝を攻めるため従軍していました。石田三成が家康追討の兵を挙げた時、大坂の千代夫人は上方の情勢と、自分のことは心配せずに家康公に忠誠を尽くして欲しいとの手紙を同郷で最も信頼のおける田中孫作に託して下野宇都宮の一豊の陣に届けさせました。この際、千代の手紙を紙縒とし、笠の緒に撚りこみ、途中盗賊に襲われ衣類、刀、脇差を奪われるという危険な目に遭いましたが無事役目を果たしました。
また、孫作は関ヶ原の戦いの前、小早川秀秋の陣を訪れ、東軍に味方するように説得しました。
孫作の墓は京都妙心寺の大通院の一豊、千代の御霊屋の脇にあります。子孫は山内家の家臣として80石の家禄で明治まで続きました。また、大溝村にも孫作の兄弟が残り、明治中期まで家系は継続していましたが、何らかの事情で大溝村を離れ、近年まで九州直方に子孫が住んでいたことが判明したとのことです。
現在、東海道新幹線脇の田中孫作の屋敷跡に石碑と説明の看板が立てられています。
Photo Canon EOS 30D
H19.7.27
住所: 米原市高溝37
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