松山城(吉見町)
上杉、北条、武田の攻防の舞台となった松山城
2008年07月19日
松山城の歴史は古く、古代にさかのぼるとさえいわれていますが、一般的には鎌倉時代初期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉築城説、応永23(1416)年ごろの上田上野介築城説などがあります。
戦国時代、松山城は関東の覇権をめぐり、山内上杉氏、扇谷上杉氏、北条氏、甲斐の武田氏、越後上杉氏らの攻防の舞台になりました。
戦国時代の城主は、山内上杉氏の重臣上田氏でしたが、天文15(1546)年の川越夜戦で山内上杉氏が大敗を喫したのち、北条氏に寝返ってしまい、以後、松山城は後北条氏の城として機能し、城の守りは、引き続き上田氏に任されています。
永禄4(1561)年、上杉謙信は9万ともいわれる大軍を率い松山城に押し寄せ城を落としました。
謙信が越後へ帰ったのちの永禄5(1562)年、後北条勢は3万の兵をもって攻撃をかけたが城は落とせませんでした。そこで北条氏は当時同盟関係にあった武田氏の援軍を得て5万数千の連合軍を結成し、再度、松山城を厳重に包囲したが、一向に落ちる気配のない松山城を見た武田信玄が、甲斐より金堀衆を呼び、地下に穴を掘って戦意を喪失させて、降伏に持ち込んだそうです。
新田次郎の「武田信玄」では、普段は風雅の武将としてしられる信玄の弟武田信廉が主将となり北条勢とともに松山城を囲んでいましたが、吉見百穴を見て、城に穴を掘って攻めることを思いついた話が登場します。
その後、北条氏の手に帰していたが、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原征伐の際に、前田利家、上杉景勝らの大軍勢に攻撃され落城しました。
同年に徳川家康が関東へ移封されると、一門の松平家広が城主となるが、関ヶ原の合戦の翌慶長6(1601)年に城主松平忠頼(家広の弟)が、遠江浜松へ転封されたのを最後に廃城になりました。
城跡は、県の史跡となっています。深い空堀、曲輪の跡などがよく残り、関東の名城にふさわしい城であったことが偲ばれます。登城ルートは私は西側の交差点付近から登りました。
Photo Canon PowerShot G9
H20.7.12
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