平時忠卿及び其の一族の墳(珠洲市)
この石塔群は平時忠一族の墓と伝承され、もっとも背の高い五輪塔が時忠の墓とされています。
時忠は、代々朝廷に仕え、姉時子は平清盛の妻、妹滋子は後白河天皇の女御になり、憲仁親王、後の高倉天皇を産んだことから権勢を振るい、正二位大納言まで昇りました。
寿永4(1185)年、壇ノ浦の戦いで捕縛され、能登に配流になりました。その間、源義経を娘婿にしました。時忠は現在の珠洲市大谷町にたどり着き、付近にしばらく滞在した後、平家の守り神であるカラスに導かれて川をさかのぼり、上流の静かな土地(大谷町則貞)に居を構えました。
以後北嶋荒御前神社や吉祥寺の元地、古屋など訪れ、歌などを残しました。
「白波の 打ち驚かす 岩の上に 寝らえで松の 幾世経ぬらん」と詠まれたこの歌は、時忠が波に洗われる岩間に生えた松を我が身にたとえたものです。
義経は、妻の父であった時忠を、奥州へ向かう際に訪ねたそうです。
吾妻鑑によれば文治5(1189)年2月24日、配所にて亡くなったとのことですが、時忠の末裔でこの墓所を護持してきた則貞家の伝承によれば、元久元(1204)年4月24日に没したとしています。
則貞家住居跡とこの墓所の発掘調査の結果、住居跡は鎌倉時代初頭にさかのぼり、墓所は室町時代後半に整備したとみられています。
(説明看板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H23.7.22
住所: 石川県珠洲市大谷町
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