加藤友三郎銅像(広島市中区)
没後85周年に中央公園に建てられた加藤友三郎銅像
2014年09月09日
加藤友三郎は、文久元(1861)年2月22日、広島藩士加藤七郎兵衛の三男として現在の広島市中区大手町で生まれました。
修道学園の前身である藩校や海軍兵学校などに学び海軍軍人となり、その後海軍次官、海軍大臣などを務めました。
第一次世界大戦後、わが国は周辺防衛のため海軍の増強を図ることの必要性から、大幅な軍備の再編を進めましたが、これにより国家予算に占める国防費は異常な事態となって財政は破綻の危機に至り、軍事費を削減してこの建て直しが迫られることとなりました。
欧米諸国も同様の状態に至り、国際世論も軍備の縮小が叫ばれる情勢にありました。
このような状況のもとで大正10(1921)年11月から翌年2月、ワシントンにおいて主要9か国による「海軍軍縮会議」が開催され、加藤友三郎はこの会議に首席全権として出席、アメリカから示されたわが国の海軍軍備を対米英比6割に縮減する提案に対して、当時の国際情勢と国益を踏まえ、国際協調による平和維持の観点から妥当な線と判断し、軍部の強い反対を抑えてこの提案を受け入れ諸条約に調印しました。
このとき軍部の強硬派に対して「国防は軍人の専有物ではない。国防は国家総動員の上に築かなければならぬ。言い換えれば、民間工業力や貿易を盛んにして、国富の裏打ちがなければ国防力は高まらぬ」と述べています。
大正11(1922)年6月、軍縮会議後の施策推進最適任者として推挙され、第21代の内閣総理大臣に就任しました。
軍事予算の削減、陸海軍の兵員艦船縮減の英断を下し、隣国との協調にも配慮する諸政策を断行して「ワシントン軍縮会議」の精神を忠実に履行したのです。
軍事予算の削減分を教育や民生の充実に回したほか、国民生活に直結する諸政策をも進めるなどの業績を残しました。
総理大臣在任中の大正12(1923)年8月24日、病死しました。享年63歳でした。
昭和10(1935)年に比治山に銅像ができましたが、昭和18(1943)年に金属回収令により、銅像は撤去されました。
比治山には銅像の台座だけが残っています。
内閣総理大臣加藤友三郎の国際協調による世界平和の具現を称え没後85周年にあたる平成20(2008)年8月24日に中央公園に銅像が完成しました。
(加藤友三郎功績碑などより)
Photo SONY NEX-7
H26.8.22
住所: 広島県広島市中区基町
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