鎌原城(嬬恋村)
上杉、武田、真田氏に仕えた鎌原氏の居城・鎌原城
2016年08月28日
鎌原城は、応永4(1397)年の築城と伝えられ、元和元(1615)年徳川幕府の「一国一城令」によって破却されるまでの218年間、鎌原氏の居城とされてきました。鎌原氏は滋野源氏、海野氏の一族で、平安時代末期より三原庄(嬬恋村)を支配する豪族下屋氏の末裔です。三原庄を開拓した下屋将監幸房(しもやしょうげんゆきふさ)の子孫幸兼(ゆきかね)が、浅間山麓の鎌原に居を構え、鎌原姓を名乗ったのが始まりとされています。
天和元(1681)年、沼田藩真田氏家老であった鎌原縫殿重継の「言上書」によると、「私の先祖は、三原を支配し、頼朝の時には鎌倉に勤め、その後は上杉氏の武士となり、次いで信玄に仕え、武田氏滅亡後は徳川幕府に属し、代々沼田の真田氏に仕えた」と記されています。
戦国時代の武田信玄による吾妻侵攻の際には、いち早く武田へ降り、鎌原城は武田氏の吾妻侵攻の拠点として常に重視されました。また、「加沢記」によると、永禄3(1560)、5(1562)、6(1563)年の上杉方と武田方の勢力争いで激しい争奪戦が繰り広げられたと記されています。
鎌原氏は天和元(1681)年の沼田藩改易後は、大笹関所(せきしょ)の関守となり、明治元(1868)年まで8代187年間、関番を務めました。
鎌原城は、南北約400m、東西約150mに広がる総面積約3万6千平米の城域を持っています。南から、三の丸、二の丸、本丸、東曲輪、笹曲輪の五郭に分かれており上城、下城、丸、陣場など城に関係する地名が残っています。各曲輪を区切る掘切は、現在は道や畑で明らかではありませんが、崖縁に堀型が残っているものもあります。
城の出入口である虎口は、三の丸の南堀切の中央部にあり、城の防御力を高める工夫がされた喰い違い構造であったと考えられています。鎌原城の構造や内部施設の多くは未だ不明ですが、中規模の梯郭式平城であったとされています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M3
H28.8.6
住所: 群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原
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