臼井城(佐倉市)
上杉謙信も攻めきれなかった臼井城
2017年07月20日
臼井城は、千葉氏の一族臼井六郎常康が臼井に居を構え、臼井氏の中興の祖といわれる興胤(14世紀中頃)の代に、この城の基礎がおかれたと伝えられています。
現在の遺構は15世紀以降のものと考えられていますが、城跡は本丸、二ノ丸を中心として、空堀、土塁等の旧態をよく残しています。
文明10(1478)年、境根原合戦で千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤の守る臼井城に籠城し7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、文明11(1479)年7月15日に包囲を緩めた様子を見た城方が打って出て、激戦となり、そして落城したと伝えられています。その時太田道灌の甥の太田資忠らが討ち死にし、現在も臼井城の土塁の上に太田資忠の墓が残されています。永禄4(1561)年臼井久胤の時、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城主正木信茂に攻められ臼井城は落城し、久胤は結城城の結城晴朝を頼って脱出、臼井氏は滅亡しました。永禄9(1566年)年には、上杉謙信と里見義弘に攻められ原胤貞らが臼井城に立て籠り、3月20日には落城寸前となったものの、原胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井浄三の知謀とその指示に基づいた北条氏側の松田康郷らにより謙信を撃退しました。
戦国時代の末期には原氏が城主でしたが、天正18(1590)年の小田原城落城により、千葉氏とともに滅びました。以後酒井家次3万石の居城となって、慶長9(1604)年の上野国高崎藩に転封されるまで使用されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H29.7.13
住所: 千葉県佐倉市臼井田
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