最初はつくばエキスプレスだが、
これが出来たのは、2005年だった。
8月の最終週で、9月からの新学期輸送に間に合わせて開業しました。
別名(正式名称)
首都圏新都市鉄道という。
最高運転速度130km/hの日本一の俊足通勤路線である。線名に高速とか急行と入れていないのがクールなのか。
ご存じない方のために補足すると、常磐線の輸送量の増加に伴い、
1980年代より構想はあった。
常磐線は、上野ーいわき(旧平)ー仙台を結ぶ幹線だが、長距離の客と、取手以南の通勤輸送、さらに貨物と3つの役割を負わねばならず、新幹線は東北本線に沿って作られたので、やはり通勤輸送の補完は必要となっていたと思う。
1960年代までの常磐線は、SLの煙が残り、ローカル情緒の残った
路線でもあった。
通勤電車の代名詞、103系のカラーリングも、中央線、総武線、山手線、京浜東北線までは出て来るが、常磐線?何色だっけ、の印象が
乗らないものには強かったと記憶する。
TXが出来て、大きく変わったのは、始発秋葉原のイメージと、流山などの沿線風景だと思う。
知人が足の便が良い、流山市にいるので、乗るようになった。
私もその特徴について、やっと考えるようになったところである。
流山には、こんな電車もある。
総武流山電鉄だと思っていたら今は
流鉄(りゅうてつ)が正式名称らしい。
常磐線松戸駅から少し先の馬橋から流山市役所の横まで5キロ強。
全線単線2両編成の電車が、とことこ走っている。
趣味的には「こっちだ」と思った人。私もその一人です。
首都圏でも、こんな奇跡のような路線が生き残っているのが嬉しい。
常磐線の道中、上野を出て最初に探訪する中小私鉄だったのです。
TXの電車の顔も、非貫通の2枚窓運転台風だが、流鉄のこいつは、元西武の2代目101系で、西武顔しています。
このあと馬橋まで戻らず、一駅手前の幸谷で降りました。
ここから歩いてすぐの所に、常磐線の新松戸駅があります。
そこから武蔵野線に乗り換えました。
新松戸ー府中本町までの
武蔵野線の最初の開業区間が開通したのは1973年4月1日。
これに伴い府中の東京競馬場近くを走っていた盲腸線の下河原線が廃止になり、日本一長い駅名(当時、国鉄)の「とうきょうけいばじょうまえ」駅が廃止になったことを思い出します。
武蔵野線は、今年でちょうど開業40周年です。
この駅看板はおそらく国鉄時代からのものではないかと推察します。
またエスカレータや自動改札は、関西の阪急あたりが最初に採用し、首都圏では武蔵野線が始まりだったと言われます。
今目の前に見ている風景は40年前のナウ、既視感のようでした。
私って、変な所に感動する人間ですね。
走って来たのは国鉄最後の新製通勤型電車の、205系です。
関西のJR西日本には、数編成しか投入されなかった珍しい形式です。
この電車が出来た頃が、83、4年で、サラリーマン1年生だった頃。
東海道線で入線して来ると、嬉しかった記憶が甦りました。
北?
|
?
|
西?ー南?ー東?
この判じ絵は、何だか判りますか。
鉄道路線図で?の所に入る駅名が浦和です。
今は西と南の間に埼京線が通り、武蔵浦和と言うややこしい駅名が増えています。
昔は時刻表クイズの頻出問題で、好意的に眺めていた大衆も、ネット社会では安易なネーミングと、厳しい意見を見かけるようになりました。
そこに私は時代の空気の変化を敏感に感じます。
武蔵野線の計画から開業までは、昭和40年代がすっぽり被さります。
高度経済成長期の最後の駆け足が、この73年春で、秋には石油ショックが始まりました。
同時期に根岸線も開通して、首都圏は埼玉・千葉・神奈川に完全に広がりました。
この武蔵野線は、貨物輸送のバイパス動脈で、越谷と新座の貨物ターミナル新鶴見に殺到する貨物を、常磐、東北線方面に回すために作られたのが目的でした。
首都圏のスプロール化は、80年代まではのんびりしていたのでは、ないでしょうか。
そうやってみると、圏央道とか、高速道路の発展が今の時代の象徴かもしれません。
私は南浦和から東北線に乗り、大宮から、さらに高崎線に乗り換えて高崎を目指しました。
大宮の大発展には、鉄道が欠かせないと思う。東北本線が私鉄の日本鉄道で開業した明治の時代から持っていた運命のようなものが、あるのではないか。
1982年から85年まで、東北、上越新幹線が大宮始発で暫定開業した時にも、大宮は注目を集めた。県庁所在地は浦和であり、大宮はサブの副都心であったが、この時に一気に大宮の都市機能の優位性がクローズアップされたと思う。
駅横に、県庁所在地級の岡山や広島では見られない、巨大な建造物が並ぶ大宮。
紛れも無い東京の分散機能が、ここに集結している。市政開始は1940年で、私の住む池田より後なのに、驚いた。
ところで社会批判でなくルポだと思って読んでいただきたいが、首都圏の東京への通勤は100kmがおかしくない。
その為にはあらゆる利用者本位の鉄道社会が成り立っており、新幹線通勤も通学もあることは、知っている。
近年東京に行く度に、いやでも目に着く2階建てのグリーン車について少し書く。
211系の2階建てグリーン車が東海道線の快速電車に連結され始めたのは、1989年の景気の良い頃であった。
その前に新幹線100系が1985年に登場し、食堂車とグリーン車は、鉄道旅のカンフル剤効果を狙って、国鉄では初の2階建て車両となった。
これに範を得たのだろうなと当初は思っていたし、東海道線と横須賀線は、戦前から2等車(グリーン車)を連結するのが、常であった。
大磯辺りに静居する貴人や政治家、横須賀線は上級軍人の利用のためである。
内田百閒の「阿房列車」などを読むと、1950年代でも仙山線や準幹線級のローカル線に2等車が連結されており、先生は「お金が無い」と言いながら、紳士は上等車と、きめているのが可笑しい。
今のローカル急行は、もうないから、特急のグリーン車と思ってもらっても良いが性質は、ちょっと違うのである。
この首都圏の通勤グリーン車は、「失われた20年」に、飛躍的に伸びた。
とくに2004年秋から
湘南新宿ライナーが大増発されて、北関東方面から山手線西側を通り神奈川県中央部まで、快速電車が駆け抜けるようになり、国鉄時代の鉄道知識は、役に立たない「古い辞書」のようになってしまった。舌を巻くような「運転」が首都
圏でされているのを目の当たりにして、全く時代は変わったと痛感する。
15連で編成された
E231系快速が、数分おきに駆け抜け、4、5号車には2階建てサロが
必ず連結されて、私も「贅沢」と思いながら行く度に、好んで乗るようになった。
埼玉県の深谷の隣に籠原と言う駅がある。地味な駅だがここが15連の始発であり、高崎まで行くのは10連だ。川口あたりで迂路ついていると、籠原という行き先を書いた電車がよく通るので、すっかり名前を覚えたが、通ったのは今回の旅が始めてであった。
今は常磐線や、総武線快速にも2階建てグリーン車は連結されている。
新幹線と東京を中心にした金銭感覚は、遠慮なく、遺憾なく発揮されるようになった。
落ちて行く地方都市の中で、車でいえばベンツに乗れるような、地方の名家は少しずつ没落して行っている。
資産を維持することの難しさと、一極に集中するモノの対比。
私の旅というのは、そのような歴史の渦の中で、変わって行くことの焦燥感や諦めに似た思いを抱えた苦しみがつきまとう。
何かのせいとは思わない。ただ、少しずつ変化する社会の中で、生きることは旅に似ているなと、思ったら、終着の高崎の都市風景が、車窓に映り始めた。
(つづく)