久々にまじめな話題ですが、
デビィ婦人のブログが凄く賑わっているとのこと。
学校に関してかなり鬱憤のたまっている私としては、食いつきたくなるネタだったのです。
まず、この記事で取り上げる事についての概要を少し
主題は
「大津市立中学2年の男子生徒(当時13歳)がいじめを苦に自殺したとされる問題について」
(※婦人の見解とは食い違いがあるかもしれません。また婦人のところで上がっている埼玉県 北本市中学1年生の自殺については情報不足のため今回は取り上げません)
事実は小説よりも奇なり
イギリスの詩人・バイロンの『ドン・ジュアン』にある言葉から
いじめを苦にした自殺、それを題材にしたフィクション物は大抵誰かが必死になって真実を追い求め、最終的にそれを皆が知って終了します。
しかし、現実はそんな都合の良い人材は居ません。
これを書いている当の私も動いていない内の一人なのですから。
数年前にも同じような事をブログにうpしたような気もしますが、
まず言いたいことは
人は社会によって作られ、社会は人によってるくられる相互依存関係にあると言うこと。
つまり人がいなければ社会はできないし、社会がなければ人はできないと言うことである。
「いや、違うだろ」と言う方もいることでしょう。
では何で人は社会によって作られるか?
その答えは「常識」と言う概念があるから。
例えばAと言う世界では服と言う概念が無く、みんな裸で生活しているかもしれない
しかし、我々の世界では服を着て生活している。
服を着ないと風邪を引くとかそう言うことを言いたいわけではないのでその辺のツッコミは無し。
なぜ服を着るのか?
理由は「皆が着ているから」で十分です。
「着ないと風邪を引く」というのは後からでも簡単に足せます。
赤ん坊は着ないと風邪を引くと言うことを理解できないので、昔からそうやって生活しているからそれがその人の「常識」になっていく。
例えば
野生児が良い例だ。
人間以外によって育てたれた(もしくは監禁されていた)事によって社会と関わらずに生きていた事によって動物のように振る舞うようになった。
話が横道にそれすぎたので元に戻そう。
つまり人間は育った環境によって善悪を区別し、行動できる画期的な生き物だ。
しかし、それが良い方向に向けばいいが、悪い方向に向いてしまうと・・・今回のような事が起こってしまうのではないだろうか。
タイトルが「バカは逝っても治らない」なのは本人にやる気がないからであると書いておくのを忘れていた。
むしろ野生児の方が知識に対してはどん欲だったかもしれない。
とりあえず、人間と社会の関係についての定義が終わったところで今回の事件についての率直な感想を書いておきたい
警察が被害届を「被害者が死亡しているため受け取れない」と言っていたという報道があるが、そうなると殺人事件は全て無効になる。
加害者側が「こちらは被害者だ!」と言うのもおかしい。虐めていたという証言があるためにどうあがいても加害者。ビラを配るなんて無駄な努力。
冗談を真に受けてという言い訳は愚の骨頂だ。
言った側が冗談だったとしても、虐めの事実があった以上、虐められている側は精神的に追い詰められているのに冗談と取れるのか考えなかったのだろうか。
虐めの事実に目をつぶっていた学校側の対応も異常。世間体を気にして元も子もなくすという無能な対応の結果、大変なツケを払わされるのは目に見えている。
人一人の命よりも学校の信頼が一番だと思っているようだが虐めのない学校などという物はフィクションの中でしか有り得ないしそんなに軽々しく命を見て貰っては困る。少なくとも人間という残念な生き物が居る以上虐めは無くならないのが現実。
以上
とりあえず書きたいことはかけた。支離滅裂なのも理解してるけど、熱くなって書くといつもこうなるのは目に見えているけど、やっぱり私が猪突猛進型なのかと再認識する機会でもある。
今度はもう少しクールになって書いてみたい(無理を承知でw
Posted at 2012/07/13 00:31:48 | |
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