2017年02月26日
『沈黙 -サイレンス-』
とても深く、観応えのある映画でした。
公開から暫く経ってからの鑑賞でしたが座席は結構埋まってました。
斜め前に『こんなに大きなMA-1ジャケットがあるんだ』と驚く、大柄な外国人男性が座っていました。この人の鑑賞中のリアクションが興味深く、自分ら日本人とは違う場面で笑ったりしていました。
やはりキリスト教圏の人が観ると観方が違う映画なんだなぁと思ってました。
(これからは鎖国と呼ばず)幕府による統制貿易が始まり、キリスト教禁教令が発令され、国内のキリスト教弾圧がほぼ終了した時代に、密かに国内に潜入した司祭の物語。
キリスト教徒じゃないと楽しめない映画だと思ってましたが、さすがマーティン・スコセッシ監督。
単なるキリストの弾圧映画ではなく、キリスト教の原点(原理)やら宗教の本質とは?を描き、最終的には『日本人とは何ぞや』を描き出そうとした映画だと思いました。
著名な原作を基にした映画ですが、映画監督の明確な意思によって作られた映画監督作品です。外国映画で日本人の本質を改めて教えられたような気がします。
意味の深い象徴的なセリフやシーンが随所にあり、その全てを紹介できません。
それでも印象的なのは、
国内潜入した主人公ロドリゴ司祭が、教徒以外の日本人の行動や行為に「beast」を連呼する。
その自覚のない侮蔑思想に対して井上筑後守は、「我らはお前たちキリスト教とは何か?を学んだ。お前たちは日本語も話せない」と、映画の中では英語で司祭へ語り掛ける。
その井上筑後守は、長崎周辺で身を潜めている大勢のキリスト教徒(隠れキリシタン)の農民たちを評し『もはやあの者たちはキリシタンではない』と言い切る。
その教徒の農民たちが密かに守り通している教義が、本来の教えと違って変質している事に戸惑いを覚える主人司祭。彼らの信じるキリスト教は、『神の為に死ねば天国へゆける』と、云わば自殺願望に近い教義へと変貌している。そして、弾圧続くこの地へ自分らを救済に舞い戻って来てくれたと、主人公司祭を守る殉教の道を選ぶ。
棄教を迫られる主人公の元へ訪れるかつての師。棄教し『転びバテレン』となった師が説く『この国は沼地だ』(だからキリスト教もこの国では根を張ることができない) さらには『我らの神は死後3日後に復活したが、日本の神は(太陽を指さし)毎日現れる、と説く。その場所は寺院の中。
たっぷりの行間と思考心を掻き立てるキーワードが満載。
知的好奇心を十二分に刺激してくれました。
と同時に、この映画の主題は『キリスト教を通して日本という国を描く事なんだ』と再確認。
かつての恩師から棄教を説得されるシーンは仏教寺院の中。
ここでかつての師は太陽を指さし『この国の神』と説明している。
映画を観れば判りますが、トンデモ日本の描写はなく、かなり深くまで日本の文化や歴史を調べて映像化しています。 確かに仏教世界には『大日如来信仰』がありますが、それが仏教の神のすべてではありません。 ここまで日本を研究していてどうして?と思って気づきました。
仏教も映画の中で問題視されているキリスト教も、どちらも後から日本にやってきた宗教。
日本には元々、独自の神々がおられる。
そー云う事を監督は言いたかったのか!?
映画は、主人公司祭が踏絵を踏んで棄教するクライマックスを迎えます。
ここでキリスト教の神が雄弁に主人公のココロに語ってくる訳です。
『弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか? 踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ』
このシーンは、キリスト教信者によるキリスト教への問いと答えだろうな。と感じます。
たしか、キリスト教の原理教典では、キリスト教は偶像崇拝を禁止していたはず。
兄弟宗教のイスラーム教と同じく偶像崇拝禁止だったキリスト教が、いつしか屁理屈を捏ねてフラスコ画から彫刻へと神を模した像を作り崇拝の象徴としていった経緯があったはず。
映画の主人公の司祭は、キリストの描かれた踏絵を踏む事で自身の信じる教えの真理にたどり着き、ココロの中に神を宿すことができた。と、映画は描いていると、自分は鑑賞しそー理解しました。
そしてもうひとり、ココロに神を宿していた男、キチジロー。
非常に奥が深く知的好奇心を掻き立てさせてくれた映画ですが、唯一不満だったの事がありました。
タイトルのとおりの『沈黙』シーンが、ない。
司祭が踏絵を踏むクライマックスも、静寂はあるもののすぐに神の声が雄弁に始まり沈黙シーンがありませんでした。
ここまで深く作り込んでいるのに、何故??
と想いながエンディングを迎え、はっと解りました。
この映画は劇中もほとんどBGMがありません。
エンディングロールが下から上へと流れる時も音楽はありませんでした。
わたしの斜め前に座っていた大きなMA-1ジャケットを着た外国人男性は、エンドロールが流れ出すと少しして席を立ち帰りました。
他の2~3人の観客も席をたちました。
でも、音楽の流れないエンドロールを残った観客は最後まで、場内が明るくなるまで席を立たず鑑賞してました。
この映画は、エンドロールに音楽が流れない替りに、
虫の声、風の音、雨の音、雷、潮騒、
この世界の森羅万象の『声』が流れ続けていました。
この映画は最後の最後で、キリスト教圏の人には長い長い沈黙が訪れ。
万物に神が宿ると信じる教えの中で育った私たちは、雄弁にその『声』を聴いていたのかもしれません。
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Posted at
2017/02/26 17:14:13
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