20100821 上田城③
投稿日 : 2010年08月26日
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本丸堀です。
二の丸堀より幅や深さの規模は大きく、掘った土は本丸に掻き上げられ二の丸より嵩上げされています。
右奥に見えるのが本丸の東北角で、鬼門除けのため角が切り欠きになっています。
何でも川の水が引かれた二の丸堀と違い、本丸堀には水路は無いそうです。
現在は、涸れないように水を供給する設備がありますが、かつては湧き水でもあったのかな?
水の設備が出来る前は、本丸堀の水が完全に干上がることもあったそうです。
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本丸東虎口の左より、南櫓、櫓門、北櫓です。
2つの櫓は、明治維新後に民間に払い下げられ、上田市内に移築されていたものを再移築したものです。
払い下げ後は、遊廓の建物として使われたそうで、襖で部屋を分けるため丸柱が角柱に改変されているそうです。
ここは内部が公開されていますが、そこまでは気づかなかったですね。
本丸には、西櫓、南櫓、北櫓と3つの櫓がありますが、かつては全部で7つあったそうです。
現在、北櫓と呼んでいるこの櫓は、本当は違う名称なんだろうな。
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本丸東虎口の右脇の石垣には、真田石という大きな石があります。
石垣の石は、上田市街の北側に聳える太郎山から切り出されています。
築城の際にこの大石をとくに真田石と名付け、門も守りとしたそうです。
そして真田氏の松代移封の時、この石を松代へ運ぼうとしたそうですが、どうにもここから動かせず諦めたそうです。
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本丸の周囲も虎口の周辺以外は、基本は土塁で囲われていました。
内側からの高さは、3mほどです。
真田信之が上田から松代へ移封され、上田には小諸から仙石忠政が移封されてきます。
仙石忠政は、ヤンマガに連載中の「センゴク天正記」の主人公で、「戦国史上、最も失敗し挽回した男」仙石権兵衛秀久の嫡男です。
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本丸土塁の幅は、上部で5mほどでしょうか。
仙石忠政は、上田城再建に許可を得ただけでなく、補助金まで得ています。
本多忠勝の娘を妻にして以降、徳川に尽くしてきたにも関わらず、真田信之に対する幕府のこの対応・・・
理由がはっきりしているだけに、さらに可哀そう。
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西櫓近くにある真田井戸です。
何でも、城北にある太郎山の砦への抜け穴の伝説があるそうです。
上田城の再建は、埋められた堀を掘り起こし、真田氏時代の縄張りをほぼ踏襲する形で行われました。
しかし再建半ばで仙石忠政は病死。
本丸の再建が成った時点で、再建計画もとん挫してしまします。
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本丸西虎口と西櫓です。
右側の芝生部分には、かつては枡形門を構成する石垣があり、櫓門と石垣の上には西櫓と同様の櫓があったそうです。
この西櫓は、仙石忠政の上田城再建時の建造物です。
その後の財政難も手伝い、二の丸,三の丸の再建は中途で放棄され、二の丸の各虎口や大手門は、枡形の石垣は再建されたものの櫓や櫓門は再建される事は無く、木戸があったのみのようです。
仙石氏は、忠政の二代後、政明の代に但馬国出石(兵庫県豊岡市出石町)に移封。
上田には、出石より松平氏が入れ替りで移封され、そのまま明治維新を迎えています。
藩主の住居や政庁としては、引き続き旧三の丸の御屋敷が使用され、再建された本丸や二の丸には門番などが居たものの、樹木等は生え放題で放置されていたようです。
どの大名家でも深刻な財政問題を抱えており、城の維持管理は相当負担になっていたようです。
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西櫓からの上田城南側の風景です。
千曲川の流れは、長野新幹線の高架のさらに南側に移動され、尼ヶ淵は埋め立てられて、河川敷は市街地になっています。
ウチのSTは、植込に隠れて見えませんね。
というわけで、期待していなかった割にはかなりの時間を割いて上田城攻めを楽しんでいまいましたww
既に16時を迎える時間で、次の城攻めが明るいウチに終わるのか微妙な状況・・・
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