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ゴランの愛車 [フォード フォーカス (ハッチバック)]

20100821 上田城②

投稿日 : 2010年08月26日
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 二の丸西虎口を出て小泉曲輪に向かうと、土橋の左手に堀跡が一部残っています。
堀底は畑になっていますが、かつては水堀だったようです。

 第一次上田合戦では、その後も小競り合いを繰返していますが、上杉のさらなる援兵の報や、徳川譜代の重臣石川数正の秀吉方への出奔などの諸事情により、徳川軍は上田より完全撤退しています。
そして徳川家康は真田氏への評価を改め、昌幸の長男信幸に重臣本多忠勝の娘を嫁がせ、懐柔策をとっていくことになります。
2

 土橋を渡った左側が、小泉曲輪跡です。
現在は体育館になっており、遺構は残されていません。
真田昌幸が上田を含むこの地域を領する以前、土地の豪族の小泉氏の居館があったそうです。
 二の丸西虎口の土橋から小泉曲輪の北側は、広堀という広大な水堀がありました。
現在この部分は野球場になっており、二の丸西側の土手や小泉曲輪側の土手がスタンドになっています。
 そして仕切りとなる土橋を挟んで、広堀の西側にはこちらも大きな捨堀(ため池)がありました。
こちらは、一部埋められ宅地になっていますが、サッカー場として残っています。
これらの水堀は、千曲川の支流の矢出沢川を堰き止めたもので、現在も水路が残っています。
 水堀は、大体水深が1.8mほどだったようです。
浅いように感じますが、当時この水深でもなお背が立つ日本人は居ないだろうからね。
3

 二の丸北虎口です。
枡形門を構成する石垣が復元されています。
東側(左)にあった二の丸堀は現在児童公園になっており、水路を残すのみで堀は残っていません。

 二の丸の東北部分は、鬼門除けの切欠きを持つ特徴的な構造でしたが、二の丸北虎口からこの部分の堀は生憎破壊されてしまっています。
この部分の児童公園やプール等は順次移転され、堀を復元する計画もあるようですがどうなることでしょう・・・
4

 二の丸北虎口の西側は、二の丸西虎口の広堀から一体となっている百間堀です。
この辺りは、現在は陸上競技場になっています。

 第二次上田合戦は、関ヶ原の合戦の前哨戦です。
真田昌幸は、一度は徳川家康率いる東軍に従いますが、西軍石田三成の挙兵を聞いて次男信繁(のちの幸村)とともに離反。
長男信幸は、妻の実家との関係もあり東軍に残ります。
その後、東軍は徳川家康直属部隊と豊臣恩顧の大名が東海道、徳川秀忠率いる38,000の徳川軍本隊が中仙道を西へ進軍し、これを真田親子が上田城で迎え撃ちます。
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 陸上競技場の出入口は二の丸北虎口の脇にあるのですが、スロープ部分の石垣も遺構でした。
スロープを降りたところにある、丁度門の部分の石垣に石樋があります。
二の丸東側の堀から溢れた水が、この石樋を通り百間堀に落とされていました。

 上田に到着した徳川軍は、まずは真田親子に上田城の開城求めますが、昌幸は返事を引き延ばしたうえに、その意図に気付き激怒した秀忠を挑発。
真田勢3,500に対し徳川勢38,000と第一次以上の兵力差でしたが、地形的に大兵力を展開しにくい上に地形を熟知した真田勢は徳川軍を翻弄。
「死傷者は数え切れない」という大敗を喫します。
そして容易に上田城は落とせないと実感した秀忠は、抑えの兵を残し関ヶ原の家康に合流すべく先を急ぎますが、天下分け目の関ヶ原の合戦に間に合わないという大失態を演じることになります。
6

 百間堀や捨堀となった矢出沢川は、城下町の北側から西側を流れる現在の位置に本流を付け替え、城の外郭を守る外堀となっていました。

 二の丸東虎口から東に200mほどのところに大手門がありました。
枡形門を構成する石垣と南北に伸びる掘があったそうですが、現在は鍵の手に曲がる通りに痕跡を残すのみで遺構はありません。
この大手門には、石垣はありましたが、櫓や門扉が作られることはなかったそうです。

 三の丸にあった藩主屋敷の跡が、現在、県立上田高校の敷地になっており、堀の一部と門が残っています。
方形の屋形跡が上田高校の敷地と一致しています。
二度目の上田合戦の後(関ヶ原の合戦後)、上田城は徳川軍によって徹底的に破却され堀も埋められたそうです。
父真田昌幸より上田領を引き継いだ長男信之(信幸改め)は、旧三の丸に屋形形式の御屋敷と中屋敷を築き、上田城の再建は行いませんでした。
真田氏の松代移封後、上田は小諸から移った仙石氏が領することになり、仙石氏によって上田城は再建されますが、御屋敷はその後も藩主屋敷として使用され、再建された本丸や二の丸に御殿が作られることは無かったそうです。
 中屋敷の方は堀等の遺構は無いですが、方形の痕跡が小学校等の敷地に見ることができます。
7

 二の丸東虎口です。
かつては枡形門だったようなので、石垣は当時そのままの物ではないでしょう。
内部の二の丸東側部分には、現在市民会館や博物館などがありますが、ここから本丸東虎口までの間には、さらに石垣や小さな堀を伴う枡形門があったようです。

 真田信之も幕府に上田城再建の嘆願はしていましたが、松代移封まで許可が出ることは無く、秀忠の「真田憎し」「上田城憎し」の感情が窺えます。
8

 二の丸東側の堀跡です。
古図によると、ここも水堀だったようです。
堀の幅は15間(27.3m)、深さは3間(5.5m)、水深は1間(1.8m)。
堀底は現在散策路になっていますが、昭和40年代までは鉄道が通っていたそうで、二の丸東虎口部分の堀底には駅のホームの跡が残ってました。

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