2014年01月31日
小指とスポーツカー 《1》
小指とスポーツカー
それは私が小学生の頃と思われるので、時代としては1950年代の末、あるいは60年代初期であっただろう。その頃の夜も9時過ぎ、宵っ張りのコドモ(私)が覗き見ていた外国のテレビ映画に、いまもその一部を覚えている鮮烈なものがあった。そういえば当時は、大量のアメリカ製のドラマや映画が、放送開始後数年という段階であった日本のテレビ番組を占拠していたものだ。画面は、まだモノクローム。記憶しているストーリーの断片から察するに、おそらく『ヒッチコック劇場』シリーズ中の一篇ではなかったか。
話というのは、こうである。街のカフェのようなところに青年がいて、カウンターにもたれてライターを弄んでいる。そのライターは、青年が「カシッ!」と操作するたびに、いつも確実に火がつく。すると、いつの間にか隣には中年の男がいて、その青年に話しかけるのだ。
「ずいぶん調子のいいライターじゃないか」
「まあね」
「さっきから見てたけど、必ずワン・アクションで火がつくね」
「ああ、そのへんにあるやつとは違うんだ」
「でも、10回続けてつくだろうか?」
「何回だって簡単だよ、ほら」
青年は、さっきまでしていたことを繰り返す。ライターは着実に発火するが、しかし中年男はなおも絡んでくる。
「そうかな? 本当に10回も火がつくかな?」
「おい、何を言いたいんだ!」
気色ばむ青年に、一見裕福そうな中年男は穏やかに言う。
「もし、そのライターが10回連続でついたら――」
「必ずつくさ、ついたら何だ?」
「きみの勝ちだ。あれをあげよう」
中年男はカフェの窓越しに路上を指差す。そこには、男が乗ってきた(らしい)一台のスポーツカーが停まっている。
「でも、もし、つかなかったら、私の勝ちだ」
中年男は青年の手に視線をやって、無雑作に言った。
「その小指をもらう」
テレビ画面を覗き見していた少年は、このストーリーに驚愕した。いや、ほとんど戦慄したというのが正しいかもしれない。少年は半ば震えながら、しかし、画面から目が離せなくなる。ドラマの中の青年は、もちろんこの勝負を受けた。モノクロ画面の中で、三度、四度とライターは火がつき、炎がクローズアップされる。
……そうだ、今日の感覚では、なぜこんなことで賭けが成立するのか、そのことが不思議であるかもしれない。いや、この頃のライターは、そう簡単に火がつく代物ではなかったのだ。摩擦を起こすための「石」を定期的に交換しておく必要があったし、仮にそうしたメンテナンスがなされていても、その石の摩擦によって生じた火花とオイルやガスがきちんと同調して、実際に“火になる”かどうかは、また別の問題だった。そのため、はじめから「カシカシッ」と数回の摩擦を行なう。つまり一回の操作(摩擦)で火をつけようとはしないという裏ワザも、ライター使用の際の常識として確立されていたほどだ。
したがって、「シュボッ!」という一回のアクションで快調に火がつくライターが、もしあったとすれば、それを持ち主が自慢気に見せびらかすのは大いにあり得ることだった。10回連続で、それもワンアクションで火がつくとは、当時は至難であったはずである。こと点火の確実性において、50~60年代のライターはたとえ高価なものであっても、近年に百円程度で売られているライターに遠く及ばなかった。もし昨今、こんなことを言い出す中年男がいたら、あまたの青年がそこらで拾ってきたライターで、何台でも好きなクルマを手に入れることができる。
さて、このドラマが私の記憶から去らなかったその理由は、そんな当時の工業水準がらみからではない。このドラマは、とにかく怖かった! それもほとんど肉体的な恐怖で、青年が賭けの代価として差し出したものが、生きている肉体の一部であったことに、少年は怯えた。天秤のようなハカリがあり、その片方の皿に「自動車」が載っている。そしてもう一方の皿には、それに釣り合うものとして、青年は自身の「小指」を載せなければならないのだ。
もちろん、勝負事と割り切れば、勝てば済むことではある。世の強者の方々はそんな風に思いながら、こうした物語を見続けるのであろうか。しかし、巷には気弱な少年もいる。この賭けに、もし勝てなかったら……? このシナリオの極端さというか、勝ち負けによって生ずる結果の“振れ幅”の大きさは人を脅かすに十分で、シナリオとしても優れてキャッチーであろう。この設定とストーリーなら、コドモならずとも、何らかの決着がつくまではテレビの前から離れられない。
(つづく)
ブログ一覧 |
Car エッセイ | 日記
Posted at
2014/01/31 01:51:06
タグ
今、あなたにおすすめ