
§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection
これは極めて「間口」の広いクルマだ。では「奥行き」の方はないのかというと、そんなことはない。相当に深い。この二重人格に近い要素を、ひとつのモデルに組み込んだというのがまず驚きである。
「間口」とは、乗り手に対してクルマがどのくらい寛容かという意味だが、このクルマはまったく(見かけと違って)人を拒むものがない。乗り心地だって悪くないし、AT版でなくても、エンジンはフラットトルクでクルマをしっかり押してくれ、まあ、実に乗りやすいのである。
一方、タイトターンが続くような日本の山岳路に持ち込むと、どうなのか。突如、このクルマは印象がコンパクトになる。小っちゃなクルマになる。意のままに動き回り、望むままに曲がってくれる。コーナリング・スピードは異様に高く、山岳路の短いストレート部分でスピードメーターを見ると、「!!」という速さに達している。
ラッシュアワーの通勤にも使えようという、居住性にもすぐれた「GT」と、峠でこそ真価発揮という「スポーツカー」と──。この二種類のクルマが、このモデルの中には棲む。内なる「CR-X」を抱えた「シーマ」とでも言うべきか。これはなかなかドラマチックだ。
このことを可能にしたのは、やっぱり、足の勝利なのだと思う。マルチリンク+スーパーハイキャスというのは、先にスカイラインで登場して、その接地性とスポーツ性の高さで強烈なインパクトを示したが、このクルマでも、その足の魅力はたっぷり発揮される。何といってもエンジンは3リッターV6ツインターボで280馬力(以上!)の出力を持つのだが、それをFRで受けて、つまり4WDとすることなく二輪駆動として、なおかつ、乗ってみると「足が余っている」という印象を残すサスペンションは見事というしかない。
新・フェアレディZは、以上のような好ましい“二重人格”を持ったニューモデルである。単なるGTでもなく、いたずらなコーナリング・マシンでもない。この二重性はおもしろい。
……スポーツカーに「間口」の広さなんか要らない! こういう説も一方にあるようだが、でも、常に“ひらかれた”クルマを作ってきたのが、わが日本の自動車史である。そのような歴史が生み出した、あるいはそうした歴史に要請された「日本のスポーツカー」として、今回のフェアレディZが示した二重構造という手口は、興味深いウルトラCであろう。
世にスポーツカー論ほど多様で、かつ身勝手な論議はないと思うが、あくまでも市販のスポーツカーとして、このフェアレディZのまとめ方というのは、これで良しと思う。繰り返すが、コーナリングの切れ味は十分にカミソリだ。安定しつつ、シャープだ。この足は、たっぷりとスポーツライク……。あまたのスポーツカー論を超えての、これは事実である。
(1989/08/22)
○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
フェアレディZ(89年7月~ )
◆結局、スポーツカー論というのは(高級車論もそうかもしれないが)論者の数だけあるのだと思う。俺はこういうスポーツカーが好き! そこへ行き着くのではないか。だから、ランボルギーニ氏みたいなリッチな人は、フェラーリに断わられたら自分でクルマを作っちゃうし。……ぼく!? 実はよくわからない(笑)。だから本書では、プジョー205GTIとかシティとかフェスティバGTとか、あるいはブルーバードまで、さまざまな意味とレベルで、みな「スポーツカー」になってしまっているのだが。
○2015年のための注釈的メモ
このコラムで、ひとつ抜けている視点があった。それはアメリカという風土とその市場ということ。フェアレディZは何よりアメリカで成功したかったクルマで、彼の地で「Zカー」として米人ドライバーに親しんでもらうためには、低中速域での快適性は必須だったはず。また、低中速域でクイクイッとすばやく曲がる感じも、速度制限が厳しいアメリカでクルマを楽しむためには重要なファクターであろう。
そのことを知っていた当時のジャーナリズム、またわが国に多く存在した“欧州志向”のクルマ評者たちが、そうした属性も含めて、このクルマをあまり評価しない気配があった。そんな中で、アメリカもヨーロッパも知らない(笑)コラムの書き手が、そうした雰囲気を感じつつ(日本で)乗って十分におもしろいぜ!……と謳ってみたのが、この一文だったと思う。
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80年代こんなコラムを | 日記
Posted at
2015/03/02 09:05:03