
○「バトル・オブ・ブリテン」
第二次大戦、「バトル・オブ・フランス」では、英仏連合軍はナチ・ドイツ陸空軍に完敗。1940年、英軍はダンケルクで敗退、フランスはドイツに降伏した。
ヒトラーは英国に「和平」を呼びかけるが、英首相チャーチルは応じない。ドイツ軍は英本土へ上陸しようと、“あしか”作戦を準備する。
戦争は、英仏海峡の制空権争いへ。
1940:7月、「バトル・オブ・ブリテン」開始。
ドイツ空軍に、寡勢ながらレーダー(史上初)を利用して応戦する英空軍=ロイヤル・エアフォース=RAF。
英軍主力戦闘機はスーパーマリン・スピットファイア。最高速602キロ。エンジンはロールス・ロイス社製マーリン45型、V12、1440馬力。
独軍の主力戦闘機はメッサーシュミットBf109。最高速600キロ。ダイムラー・ベンツ社製DB60-N型、倒立V12、1200馬力。
つまり、ロールス・ロイス vs ダイムラー・ベンツ!
結局「バトル・オブ・ブリテン」は引き分けで、1940年10月に終了。英本土上陸の“あしか”作戦も棚上げになった。翌年、ドイツはソ連へ侵攻を開始。
「バトル・オブ・ブリテン」で“負けなかった”ことは、「連合軍にとっての一つの大きな転機」(著者)となる。
○戦争を支える自動車工業
航空エンジンのほとんどは、自動車メーカーが生産した。
アメリカのパッカード社はRR(ロールスロイス)のマーリン・エンジンをライセンス生産。ノースアメリカンP51マスタングに搭載。
ドイツのBMWはフォッケ・ウルフ190型の空冷星形エンジンを製作。
フォード、カイザーは軍用機そのものを生産。ドイツではマイバッハが戦車エンジンを生産、フェルディナント・ポルシェはドイツ戦車委員会の議長だった。
○ジープの誕生
「バズーカ、ジープ、原子爆弾、そしてダグラスDC3が、第二次大戦の勝利を決定づけた」連合軍総司令官ドワイト・アイゼンハウアー元帥。(バズーカは対戦車ロケット弾発射装置)
ジープは1920年代から、米陸軍といくつかの企業で軍用車両の開発が始まっていた。中心となったのがバンタム社とウィリス社。当初は前輪駆動の機関銃担送車(マシンガン・キャリアー)だったが、それが四輪駆動に切り換えられ、自動車メーカー三社が試作。それらの良所を集めて標準化した第一号車が「MA」。
1941:さらに改良を重ねた「MB」を生産に移す。
「ジープ」という名は一連のテスト車で既に使われていたが、「MB」以後に定着した。漫画「ポパイ」に出てくる動物“ジープ”に由来するとされる。ただ異説もあって、フォードの試作車のコードナンバー“GPW”が訛って「ジープ」になったともいわれる。
ジープは大戦中、各戦線において大活躍した。偵察用、傷病兵の運搬、重機関銃を装備して戦線の攪乱など。水陸両用ジープ1万2000台も含んで、アメリカで64万7000台が生産された。
○64万台 vs 7万台 vs 4500台
ドイツ版の“ジープ”はVW=KdFをベースにするキューベル・ワーゲン(たらい車)と、水陸両用のシュヴィム・ワーゲン(泳ぐ車)。戦争突入後、ウォルフスブルクのKdF工場は、ただちに戦時生産へ。不整地走行用のキューベル・ワーゲンを増産。空冷エンジンは酷暑にも酷寒にも強かった。
ドイツでKdF系のジープ・タイプ車は、約7万台が生産されたと見積もられている。日本でもジープ・タイプ車は作られ、「くろがね四輪起動車」は約4500台生産された。64万台と7万台と4500台──。
「第二次大戦の勝敗の鍵は生産力のレベルいかんにかかっていた、とはよくいわれることだが、ジープ、KdF、そしてくろがねの生産台数の差が、歴然とその事実を物語っている」(著者)
○タイトルフォトは英戦闘機スピットファイア、「THE FORD CENTURY」より。
(つづく)
(このシリーズは、折口透さんの快著『自動車の世紀』(岩波新書)をナビゲーターに、クルマ史におけるさまざまなシーンを見ていきます)
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クルマ史探索file | 日記
Posted at
2016/04/18 22:36:58