
○日本の「国民車構想」
1955:日本の“乗用車元年”。
トヨペット・クラウンとダットサン110がデビュー。
1950年の乗用車生産台数、アメリカ662万8598台、ヨーロッパ110万0586台、日本は1594台。1954年に日本の乗用車生産が1万台を超えたが、その75%はタクシーで、1957年でもその割合は50%を超えていた。
1955:「国民車構想」
通産省・自動車課が発表したもの。大戦後の欧米では急速に自動車の大衆化が進んでいた。VW、ルノー4CV、モーリス・マイナーなど。一方で少し前に、一万田日銀総裁は“国産車育成無用論”を唱えた。国産車に金をかけるより、アメリカ車などを積極的に輸入したらいい、という発言をしていた。
通産省の川原技官がまとめた要綱案。将来の国民車の条件。
・最高速、時速100キロ以上。乗員四人。ガソリン1リットル当たり30キロ以上走行。
・月産2000台の場合、工場原価15万円以下。最終価格が25万円以下であること。エンジンは350~500ccを適当とする。
・通産省はこの条件を示して後一定の期日までに試作を奨励する。テストの上で量産にふさわしい車種を選定し、それに対して財政資金を投入して育成をはかる。
○“育成”ではなく民間主導で
戦前の日本の自動車工業は陸軍主導型で“育成”が計られたが、見るべき成果はなかった。本来、どこの国でも、自動車工業の発達は民間主導型が本命。通産省の要綱案は、行政指導のかたちを採ったが実施はされなかった。
しかし、「多くの企業は、この要綱案に前向きの関心を示した。そしてメーカーの多くは積極的に自社構想をまとめようとした」(著者)
ただ、この構想に猛反発したのがタクシー業界。この構想に近い車が発売されると、それがタクシーに転用され、料金のダンピングが起こりかねないというのが反対する理由の第一だった。
1956:トヨタ、IAI型を発表。
国民車構想に応えた、幻のプロトタイプ。2ドア・タイプで、これはタクシーには使えないことの証明のために、いち早く公表したと見られている。後年に「パブリカ」として現実化する。(1961年)
1960:三菱500、デビュー。
国民車の提案に対応したもの。
○“模範解答”の登場、スバル360
1955:社内の軽四輪計画懇談会で、コード名「K10」がスタート。
スバル360は富士重工の伊勢佐木製作所で、最初からオーナー・ドライバーのためだけに設計された。そしてもうひとつ、輸出可能であることという条件を付けていた。ちなみに1955年の輸出台数は、乗用車2台(!)、トラック、特装車などを含めても1231台だった。
「K10」計画は軽量化が最重要課題となった。さらに、大人四人が乗れること。まず、客室(キャビン)を決定。前輪はできるだけ前方に。サスペンションは横置きのトーションバー、全輪独立懸架。ポルシェ・コンセプトとの共通性。日本初のリヤ・エンジン方式。薄い鋼板(0・6ミリ)で強度を取るためのボディの曲面構成。
○小さなクルマの冒険
ヨーロッパ自動車技術者の口伝、“小さなクルマ、大きな冒険”。
「日本独特の存在である各社の軽自動車も、すべて寸法とエンジン排気量の制約のもとでの冒険に挑戦し、それぞれ独自の個性的モデルを生み出した」(著者)
1958:スバル360、デビュー。
1960:マツダ・R360クーペ
1967:ホンダN360
○日本自動車技術の底辺
「日本の自動車工業は、軽自動車という底辺層の技術の下支えのもとに発達したといっても過言ではない」(著者)
乗用車ひとり当たりの人口は、1994年になると2・9人となり、欧米と並んだ。アメリカは2・5人、ヨーロッパ2・1人。
1980:日本の自動車生産台数、717万6250台。
アメリカの643万余台を抜いた。アメリカは1906年から74年間、首位の座を守っていた。乗用車元年の1955年から、わずか25年後で、世界一位へ。
日本の自動車工業、いくつかの特徴。
・欧米のノウハウを短期間に吸収・消化した。
・モーター・レーシングはほとんど経験しなかった。
・強力な軽自動車層という底辺がある。
*
「自動車の世紀」は、このあと、文芸の中の自動車(日本を中心に)、映画と自動車、スピードの美学、自動車に恋した20世紀……といったテーマで論考が続きます。文芸と自動車の項では、欧米の小説では、作家が巧みに登場するクルマの車種を使い分けていると、著者は指摘します。
「アメリカのハードボイルド作家レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』では、アル中の作家はジャガー、その奥さんで一癖ある女性は、ジョエット・ジャヴェリンというあまり名の知れぬイギリス製スポーツカーに乗っている。(略)そして主人公の私立探偵フィリップ・マーローのクルマは、くたびれたオールズモビールである」
そして本書は、次のような言葉で結ばれます。
「20世紀の自動車を中世のゴシック大聖堂に例えた人がいる。ともに、ある一つの世紀、そしてその文化の象徴だからだろう」「ゴシック大聖堂はその本来の機能を果たした後も、一つの文化遺産として壮麗なかたちを残し続けている」
「はたして現代の自動車が、そのような形の遺産として21世紀を生き続けることができるかどうか──その答えは、神のみぞ知るというほかはないだろう」
(了)
(このシリーズは、折口透さんの快著『自動車の世紀』(岩波新書)をナビゲーターに、クルマ史におけるさまざまなシーンを見て来ました。お読みいただき、ありがとうございます)
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クルマ史探索file | 日記
Posted at
2016/04/23 11:40:00