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老人ギタリストもどきのブログ一覧

2025年08月08日 イイね!

千葉旅行とコロナ顛末記 その9

千葉旅行とコロナ顛末記 その9県立病院に到着して、お世話になった救急隊員とお別れすると、先ずは、救急外来でのPCR検査となりました。鼻に突っ込まれるPCR検査は、2024年1月に続いて2回目の経験でしたが、2024年1月の検査では、新型コロナウイルスでも、インフルエンザでも無かったので、良かったのですが、今回の検査では「コロナ陽性」と言う無情な答えでした。新型コロナウイルスが流行り始めて以降、極度に警戒して三密を避け、ワクチンも5回までは接種。外出時には必ずマスク着用して来ましたが、今回の千葉旅行では、警戒感も薄れてて、かなり、気が抜けていたのでしょう。

その後は、血液検査やらCT検査等々を実施。その結果を受けて、医師から「〇〇さんの容態は、非常に安定しており、肺の状況としても、軽い白い影は見られますが、自宅療養でも大丈夫なレベルです。入院がご希望だとはお伺いしてましたが、最終的にはどうされますか?」と言われたのでした。しかし、トイレでの修羅場もあった通り、自宅には、身体を支える取手も無い事から、自宅で療養する事は、物理的にも無理だと考えて、「申し訳ないのですが、自宅には、身体を支える様な取手も無く、トイレに行くのも不自由しておりますので、入院でお願いしたいです」と伝えたのでした。それを受けて、医師も「上と相談して参ります」と言って退室して行ったのでした。

その時に感じた事は、新型コロナウイルスの大流行と共に、この県立病院は、時として、ECMO (エクモ)を使って、有名なスポーツ選手を含めて、沢山の命を救って来た基幹病院でもあり、コロナウイルスに対しての実績が充分な病院だと考えていましたが、自宅療養を勧めてきた医師の姿から「一般の患者なら受け入れても良いけど、コロナの患者は、お腹いっぱい」的な、雰囲気を微かに感じ取ってしまい、とにかく、入院一択で押し切る事が最善であるとしか考えていませんでした。やがて、先程の医師が戻って来て、最大で2週間の入院加療の許可が出ました。

その後は、車椅子に乗り移って、病室に誘導されましたが、便意は全くありませんでしたが、喉が乾き切っていました。家内にいろはすを3本買ってもらい、病室内で、漸く、静かに過ごす事が出来る様になりました。その姿を見て、家内も安心して自宅に戻りました。その日の夕食はありませんでしたが、空腹感はありませんでした。ただただ、喉が渇ききっていました。20時頃に検温があり、8度4分程あったので、カロナールを2錠頂き、熱が下がってくれたのか、消灯の21時半頃には爆睡しており、朝までグッスリと睡眠を摂る事が出来て、かなりリカバリーする事が出来ました。

しかし、その後、根底を揺るがす様な出来事が待ち構えていたのでした。7月10日の朝は、朝食がありましたが、相変わらず、食欲はありませんでした。9時過ぎになり、ドアがノックされると、バイタルチェックの看護師と共に、居丈高な口調の年配女性医師が現れて、「〇〇さんは、当院で、2週間の入院治療の予定でしたが、当病院は、ご存知の通り、地域の基幹病院としての役目がありますので、現在、新規のコロナ患者は受け入れ無い体制になっております。申し訳ないのですが、午後から、他の病院に転院して頂けますか?」と。それを、圧を掛けながら言われると「はい!分かりました」と答えるしかありませんでした。

言いたい事を言って、立ち去ろうとする威丈高な女性医師に、「どちらの病院に転院になる予定でしょうか?」と、追いすがり気味に質問すると、「これから調整しますので、そのままお待ち下さい!」と、ドアをピシャリと閉めて行かれました。その強烈とも言える、医師の立ち振る舞いに、病室に残された看護師と私は顔を見合わせて、苦笑するしかありませんでした。転院予定の病院が知らされましたが、県立病院からは、10分程度でアクセス可能な、Y病院と言う事でしたが、国家公務員共済組合連合会の病院で、割と古くからある、呼吸器系に強い病院の様でしたが、私個人としては、全く知らない病院でもありました。

しかし、「呼吸器系に強い病院」と言う、コロナ患者に刺さるワードに、一縷の望みを見出して、ポジティブに考える事にしました。私が転院すると言う連絡は、県立病院から家内にも連絡がいっている様でしたが、Y病院での入院手続き等があるので、家内とは現地集合となりました。その後は、県立病院からの出発時間が二転三転したものの、結局は、13時半に、県立病院の救急車で出発して、14時前に現地到着となりました。県立病院の救急車からは、ストレッチャーで車外に降りたものの、病院内では、車椅子での移動の方が安全となり、ストレッチャーから降りた私は、車椅子に乗り直しました。

県立病院の救急隊員に挨拶してから、、Y病院のスタッフに車椅子を押して貰いながら、病院内に入って行くと、受付の方と話をする、家内の姿が見えて来ました。家内に目配せすると、受付に家内を置いたままで、病室に案内されました。そこは、県立病院と同じく、バス・トイレ付きの個室でしたが、病室に入って、ベッドで横になっていると、早速、呼吸器内科の女性医師が入室して来て、発症から、現在に至るまでの時系列での質問が開始されました。それが終わると、男性看護師が様々なバイタルチェックを実施。早速、右腕に血管を確保すると、ステロイド点滴が開始されました。すると、漸く、家内が戻って来ました。

男性看護師が退出後に、家内から齎された情報は以下の項目でした。このY病院は都会にありながら、贅沢とも言える2階建ての造りで、各病棟が「離れ」の様に繋がった、広大な敷地を擁する病院だと言う話でした。その中でも、特に離れた場所にあるのが、私が居る病室の様でした。それを聞いて、「この病棟は、コロナの隔離病棟なんだろうな」と思ったものでした。主治医の女性医師は、私との面談が終わると、その足で、家内との面談にも臨まれた様で、その時は、私の現在の状況は、決して、楽観視すべきレベルでは無いとの話で、その予後に関して、かなりショックな話をされた様でした。
Posted at 2025/08/08 11:25:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2025年08月07日 イイね!

千葉旅行とコロナ顛末記 その8

千葉旅行とコロナ顛末記 その8立ち上がる気力が無く、便座に座り続けていた輩は、徐々に、便座に接触している臀部から、痺れ感が生まれて来て、臀部から太腿に痺れが伝染し、更には、太腿から足先まで痺れが進行。遂には我慢し切れなくなり、意を決してトイレのドアの端を掴むと、腕に力を入れて、お尻を浮かせて拭き、パンツとパジャマを引き上げると、寝室には戻らず、iMacが置いてある、居間のソファに移動して腰を下ろしました。しかし、悲しい事に、ここでも、第2の悲劇が待ち構えていました。それは、再び、強烈な便意が襲って来た事でした。仕方ないので、掴まれる場所を手探りで探しながら、何とか便座に座る事が出来ました。

すると、それまで、力尽きて寝ていた家内が、私の気配に気付いたのか「トイレに入ってんのか?お腹が痛いん?」と、ベッドサイドから尋ねて来たのでした。私が自嘲気味に「既に、連続2回目のトイレをしてる」と伝えると、「じゃあ、それが済んだら、介護タクシーを呼んで、車椅子で病院に行く?」と言うので、「まだ、この便意が止まるかどうかは分からんから、何とも言えん!」と答えるに留まりました。この2回目の便座からの脱出も、1回目と同様に、臀部からの痺れ感が、我慢出来なくなってからの、満を持しての、必死の立ち上がりでした。立ち上がってからは、恐る恐るの体で、iMac前のソファに座りました。

その時の時刻は、既に、昼の12時を回っていて、体温が8度台に下がった8時過ぎから、無駄とも言えるトイレ行脚で、4時間を費やしていました。ソファに腰掛ける私に、家内が「じゃあ、これから介護タクシーを呼ぶよ!」と、言って来たので、ソファから立ち上がろうと腹に力を入れたところ、あろう事か、3回目の便意を催して来たのでした。仕方ないので、再び、トイレに向かい3回目の便座に座ると、過去の2回とは違って、固形では無く下痢状態になっていました。それを受けて、それならトコトン出してやろうと、下腹部にチカラをいれて、満足するレベルで、フィニッシュする事が出来たのでした。

しかし、立ち上がりは別の話でした。再び、長い逡巡の時間を過ごした後、例によって、痛い程の痺れ感に、意を決して立ち上がり、漸く、ソファに戻る事が出来ました。私は、そんな状況に限界を感じていた事もあり、徐に、家内に「救急車を要請してくれる?」と言い放ちました。すると家内は、「えっ?今更?救急車を呼ぶん?」と言うので、「トイレまでの、3m程度の距離すら、ふらふらの伝い歩きの状況では、自力で1階まで降りて、タクシーに乗り込む事なんて考えられん!」と言うと、「じゃあ、介護タクシーなら良いじゃん!いざと言う時に、手助けがあるかも知れんし!」と食い下がって来ました。

そこで、私が「救急車で無いと、もし風邪じゃ無かった時の対応が、後手になってしまうし、最悪、新型コロナウイルスだった場合には、タクシーを使用していると、何処の病院に向かうのが、ベストであるのかの判断が出来ないから、ここは救急車を呼ぼう!」と言うと、漸く、救急車を要請する事に同意してくれました。時間は、既に15時近くにもなっていました。せっかく、深夜の高熱ゾーンから、8度台にまでリカバリーして、自力受診のチャンスが生まれたにも関わらず、3回にも及んだ、突然の便意に邪魔されて、数時間超の時間を消費させられてしまったのでした。

家内は、救急要請する前には、マンションの管理人に詳細を伝えて、2機あるエレベーターの1機を押さえてから、救急要請していました。私の自宅は、駅近マンションの2階にあり、救急隊員は、当然としてエレベーターを使う訳ですが、その頃の私達は、エレベーター内には、救急搬送用の隠し扉があって、通常は閉まっているものの、緊急時には、患者の足を伸ばせる様な、隠しスペースがあるのだろうと考えていましたが、実際の運搬作業は、私達の想像よりも、かなり違ってました。救急車で到着した救急隊員は3人でしたが、その内の2人が、寝袋の様なものを玄関に広げたのでした。

2人の隊員が、寝袋の様なものを広げ終わると「ご主人!この上に乗って、横たわって頂けますか?」と、2人の上官と思われる隊員から、声を掛けられました。私が、家内に支えられながら、ゆっくりと横たわると、2人の救急隊員は、手際良く、私の身体を縛り上げる様に、ベルトを使って固縛して行きました。それから、2人の隊員が前後に分かれると、前後の端部にあるロープを肩に掛けると、一気に担ぎ上げながら、エレベーター前に向かったのでした。エレベーターが到着すると、再び、担ぎ上げてエレベーター内部に、私を搬入しました。膝を曲げる必要がありましたが、斜めに入る事ができました。

エレベーターのボタンが押され、1階に到着すると、そこには、折り畳まれたストレッチャーが用意されていました。寝袋のままで、ストレッチャーの上に、私を移動させると、固縛箇所を緩め、締め付け箇所も解除して、寝袋を広げると、ストレッチャーの横に位置取りした、2人の隊員が、サッと寝袋を抜き去りました。そして、ストレッチャーを立たせてから、救急車のバックドア前に移動して、ストレッチャーのままで、バックドアから救急車内部に搬送されました。そして、直ぐに心電図や血圧、酸素等のバイタルチェックのセットアップに入りました。それが、終了すると、上官による質問が始まりました。

その中で、特に手厳しく指摘されたのは、「深夜に40度近くまで体温が上がり、大変な状況だったのは、分かりましたが、それが、朝になったら、8度台まで下がってたんですよね?その時だったら、自力での病院受診が可能だったのではないですか?」と言う至極当然の指摘でした。私が便意の事を話すと、一定の理解はありましたが、まさか、便意だけで、数時間以上も、無駄に費した輩が居るとは考えていない様でした。最後には、「何か仕方ない事情があったのでしょう!」と折れてくれました。その後、希望する病院はありますか?と聞かれたので、知ってる県立の総合病院を言うと、直に受け入れが許可になりました。
Posted at 2025/08/07 11:18:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2025年08月06日 イイね!

千葉旅行とコロナ顛末記 その7

千葉旅行とコロナ顛末記 その77月3日から7月4日に掛けての夜は、引っ切りなしに咳が止まらず、時折、激しく咳をする事もあって、あまり眠れずに朝を迎えました。これは、最早、病院で「レルベア」を貰うしか無いと決めて、広島市中区にある、掛かり付け医を受診しました。レルベアとは、吸入ステロイド剤で、主に喘息の治療薬で使用され、喘息の是正を図る薬で、2024年1月に患った重篤な風邪の時に、そのレルベアで、咳が止まったと言う、成功体験を持っている薬でもありました。通常は、14回/14日分のタイプで、2024年1月には10回/10日分で咳が止まってくれました。

それに加えて、2025年6月18日に別件で受診した際にも貰っていた、他の風邪薬も追加で貰って来たのでした。その内容としては、PL剤やムコダイン、アスベリン、トローチに、抗生剤のクラビットとかですね。自宅に戻って、早速、レルベアを使用したところ、7月4日から7月5日に掛けての、夜中の咳がかなり改善されたのと同時に、7月5日から7月6日に掛けては、拍子抜けする程に、すっかりと、咳が鳴りを潜めていました。つまり、僅か2回の使用で、激しい咳とはサヨナラ出来たのでした。しかし、喉の痛みと痰は相変わらずでした。

眠れない程の激しい咳が治まった、7月6日から7月7日の夜は、喉の痛みや、痰の勢いも衰えた様に感じて、至極、快適とも言える状態でしたが、それでも風邪薬を飲んでは寝るの繰り返しで、少しでも早く、この状態から脱しようと、睡眠時間の確保を最優先して過ごしたのでした。7月7日の日中も、ただひたすらに惰眠を貪り、極力、身体を休める事を優先したお陰で、少なからず症状はあったものの、その夜も何とか寝る事が出来ました。しかし、翌朝の7月8日の8時に、iPhoneのタイマーで起床した頃から、それは起こり始めました。

起床直後には、咳は無かったものの、次第に、喉の痛みが増して来るのと同時に、痰も出て来る様に変化していました。それでも、出来る事と言えば、これまで通りで、病院で貰っていた風邪薬を飲んでは、惰眠を貪る事だけでしたが、症状は一向に改善されず、その内には、咳も鼻水も出てくる様になっていました。これらの症状の主因が「風邪」であれば、ひたすら養生する日々の中では、何らかの改善が成されて良い筈の状況でしたが、実際には、可笑しな事に、着実に悪化の一途を辿っていました。つまり、風邪のセオリーとは、真逆とも言える状態だったのでした。

7月8日の午後に入ると、それまでの症状にプラスして、体温も次第に上がり始め、遂には8度台にもなっていました。日頃の平熱が、35度台の私にとっては、36度の後半から37度前半であっても、熱っぽく感じて、怠さも出て来る様な状況でしたから、38度台の高熱は、私にとっては、久しく経験した事が無かった異常値でした。そうなると、食欲も減退して、ウィダーインゼリーを飲んでは、風邪薬を服薬して寝るを繰り返すしかありませんでした。それでも、2024年1月に患った風邪よりはマシでした。その時は、正月でもあったので、近所に唯一開いていた内科を受診。漢方薬を出されて、何も改善されない、悶々とした1週間を過ごす羽目に陥りました。

その1週間後に受診して、漸く、漢方薬では効かない事が医師にも分かったのでしょう。やっと抗生剤とレルベアを処方してくれましたが、レルベアは咳に効果的に効いてくれたものの、他の薬は全く効かずで、結局は、広島市中区にある掛かり付け医を受診して、いつもの風邪薬を処方して貰い、何とか治まってくれたのでした。しかし、2024年1月の自宅療養では、とんだ伏兵が、待ち構えていました。風邪薬を飲んでは、ひたすら、寝ていた事で、風邪の症状が回復して来た直後に、ギックリ腰を発症。しかも、それが治った1週間後にも、再び、2回目のギックリ腰を発症したのでした。

その時は、広島駅の北口近くにある、ペインクリニックでお世話になっているK整形外科に、タクシーで向かい、仙骨ブロック注射をする事で、比較的、早目に痛みが取れたものの、それが2週連続で続いた事で、医師から「寝たきりの人は、足腰が弱って、ギックリ腰の発症リスクが増大するんですよ。ですから、ベッドから起き上がる際には、前屈みの状態から、腰に負担を掛けずに起き上がるのが良いですよ!」と言う説明を受けた事があったので、その事を思い出した私は、起き上がる際には、特に注意を払ったものでした。しかし、薬を飲んでは、大人しく横たわってるにも関わらず、その後も体温が上がり、時刻が0時を回った頃には、遂に大台に突入したのでした。

それは、子供の頃にも経験が無かった「39度越え」でした。結局は、家内に体温を測って貰ったタイミングでは、「39.5度」を記録したものの、もう少し、ほっとけば、40度になったかも知れない様な状況でした。それまでにも、家内が、冷たいお茶を、ストローで飲ませてくれたり、頻繁に氷枕を交換してしてくれたりしていましたが、それでも、どんどんと上がり続けていました。しかし、40度手前が最頂点だったのかは、分かりませんが、その後の経過としては、7月9日の朝の8時頃までには、38度台に落ちてくれていました。それは、夜中の間、懸命に介護してくれた家内のお陰でした。

私が8時過ぎに目を覚ました際、すかさず、家内が体温計を差し出して来たので、それを受け取って計測してみると、体温が、38度台に落ちてくれていました。それを見た家内も、山を越した感があったのでしょう。疲労困憊気味で、私の傍らで横になると、寝てしまっていました。しかし、38度台に落ちたからと言って、私の苦しさは大して変わりませんでした。そんな中、体勢を変えようと、身体を少し起こすと、いきなり強烈な便意を催したので、ベッドから起き上がり、ふらついた足取りのまま、ドアや柱に身を任せながら、何とか、約3m離れたトイレに辿り着く事が出来て、用を足せたのは良かったものの、便座から立ち上がる気力がありませんでした。
Posted at 2025/08/06 07:59:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2025年08月05日 イイね!

千葉旅行とコロナ顛末記 その6

千葉旅行とコロナ顛末記 その617時過ぎには、家内と孫を抱えた長女が帰って来ました。そして、いつもの様に、18時半頃から夕食となり、夕食後には、怠惰で静かな夜が過ぎて行きました。翌日の2025年7月1日は、これまでにも、何度も目にしながら、行った事が無かった、長女のマンションからは、徒歩5分圏内にある、焼肉レストランに行く事にしてました。それは、看板メニューにあった、リーズナブルなランチメニューに、エントリーする事が、この日の主目的でしたが、その焼肉レストランは、10時から10時半の間に入店すると、焼肉ランチが780円になると言う魅力的なものでした。

私達は、変に気合いが先走ってしまい、11時前から出発準備を始め、10時50分には長女宅を出発。10時55分には、店の前に到着していました。しかし、入店するのを躊躇していると、3人グループのオバチャン達が現れて、コンクリートの階段を登り始めたので、それを後追いして、入店する事にしました。入口から店内に入ると、既に開店待ちの先行客が、待っていました。そして、開店時間の11時なると、順に窓際の席に誘導されて、次々と注文が出されていました。私達も、窓際の席に誘導されましたが、少し遅れて、780円のランチを注文したのでした。

到着した780円のランチメニューの内容は、100グラムの霜降り風の柔らかい牛肉と、サラダとワカメスープ、それに、お代わり自由のご飯と言う構成でしたが、そのメニューに、更にお肉を追加して、注文するのが普通の注文方法と、後で長女に聞いたのですが、朝食を割とガッツリと食べていた所為で、ご飯もお代わりする事なく、リーズナブルな構成で満足した夫婦は、この日、一番に退店したのでした。焼肉レストラン下の歩道で、シマムラに寄ってから帰ると言う家内とは別れ、私は家内に頼まれた、麦茶とモヤシをスーパーで買い求めてから、長女宅に戻りました。

長女のマンションの鍵は、昼食後に、シマムラに立ち寄ってから、帰る事を明言していた家内から、既に預かっていたので、先にマンションに帰っても、家内からの帰宅のチャイムにさえ、気を付けていれば良かったのでした。。マンションに戻ってからは、再び、エアコンを掛けて、カーテンを閉めた暗い部屋で、YouTube三昧に過ごして、長女が帰宅してからは、孫と遊びながら、長女宅の最後の夜を過ごしました。その翌日の、2025年7月2日には、長女と孫を送り出した後、家内は掃除と洗濯を進め、私は客間に置いていたスーツケースに、荷物を詰めて、帰り支度を始めていました。復路は、東京駅からの始発だったので、精神的に余裕がありました。

10時過ぎには、全ての準備が完了します。長女のマンションを出ると、スーツケースを引っ張って、都賀駅を目指し、10時42分発の、東京駅直通のJR成田線快速+JR総武線快速に乗って、11時32分に東京駅に到着しました。直ぐに、超特急で、新幹線で食べる弁当を購入すると、エスカレーターに乗って出発ホームに急ぎ、自由席の乗場を目指したのでした。すると、予定していた12時12分発の、のぞみ31号博多行き目当ての乗客の姿はまだ無く、今度こそは、富士山ビューが望める最前列のD,E席が取れると喜んだのでした。しかも、トイレにも近い場所の、乗降口でもあったのでした。

それから、僅か2〜3分後には、私達の後側には、列ができ始めていました。本当に、間一髪とも言えるタイミングでの、ポールポジションゲットと相成りました。のぞみ31号博多行きが到着して、アナウンスに誘導されるままに車内に入ると、希望していた、最前列のD,E席に腰を下ろして、暫し余韻に浸っていましたが、時間も昼の12時を回っていたので、超特急で購入していた、昼食用の弁当を食べる事からスタートする事にしました。その内には、新幹線も東京駅を出発していました。次駅の品川駅に到着すると、外国人観光客が大挙して乗り込んで来ました。

この頃は、まだ席にも余裕がありましたが、品川駅を出発して、次駅の新横浜駅に到着した頃には、大きなスーツケースと共に、通路に立つ外国人観光客も散見される様になります。一方で、この日の天気は、薄曇りだったので富士山の方向は、深い雲に覆われて、富士山ビューは望み薄の状況でした。名古屋では、指定席の状況は分かりませんでしたが、私達がいる自由席に変動はありませんでした。しかし、次の京都では一気に外国人観光客が降りて行き、再び、どっと乗車して来ました。その多くは、次の新大阪駅と、その次の新神戸駅で大半が降りて行きました。

そうなると、たちまち、新幹線のエアコンの冷気を、一際感じる様にもなり、半袖のシャツしか着用してない夫婦にとっては、過酷とも言える時間帯が訪れました。長袖類はスーツケースの中にあったので、どうする事も出来ず、約1時間半の間、夫婦は肩を寄せ合って凌ぐしかなく、漸く、16時2分に広島駅に到着しました。連絡通路を通って、在来線乗場から、岩国行きの普通電車に乗り換えると、16時23分には、自宅の最寄り駅であるJR西広島駅に帰り着く事が出来ました。2階の改札からエレベーターで地上に降りると、再び、スーツケースを引っ張って、徒歩5分圏内の自宅マンションに向かい、1週間の千葉旅行が終わったのでした。

翌日の2025年7月3日は、千葉旅行で使用したスーツケース内の荷物は、7月2日に帰った時点で、殆ど整理は付けていたので、当面はやる事が無く、自分のスペースに置いているiMacを起動させて、YouTubeを視聴したり、iPhoneを触ったりして過ごしていました。午後になると、喉の奥に違和感を感じ始めるも、まだまだ咳を伴う程では無かったので、当初は、安心していましたが、しかし、時を追うごとに、徐々に咳が出始めて、直接、鏡で扁桃腺を見た訳ではありませんでしたが、何か腫れて来てる様な違和感を感じたので、これは、新幹線のエアコン冷気に遣られてしまったと考えたのでした。
Posted at 2025/08/05 09:15:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2025年08月04日 イイね!

千葉旅行とコロナ顛末記 その5

千葉旅行とコロナ顛末記 その5一体、何時間待たされる?と憂鬱になりながら、冷房の効いた店内でボーッとしていると、僅か10分後に、いきなり番号を呼ばれて慌てます。案内の女性スタッフに待ってもらって、エレベータールームの1階に居る、家内に電話しました。そして、合流すると、改めて、コーナーにあるテーブル席に誘導されたのででした。先ずは、軽いルール説明がありました。それが終わってから、長女に、200番も飛び越えて呼ばれた理由を聞いたのでした。

すると、長女は「この、Ocean tableの客層は、例え長時間待ってでも、気に入った場所で食べたい」と思う客が多く、「どこでも良い」とした、長女のオーダーが優先されて、短時間で呼ばれたのだろう」との話でした。その後は、戦闘開始となるのですが、メニューの前に長蛇の列が出来て、皆、牛歩の歩みなのには閉口でした。メニューを皿に盛るスペースが狭すぎて、列の最後には、パンを焼くスペースがある為に、そこでも渋滞が起こっていました。

それは、店の意図的な作為を感じる仕様でしたが、食事時間は「無制限」だったので、客席を優先した結果なんだろうと、1人納得したのでした。先行した家内がトレーに載せて戻って来たタイミングで、今度は、私がスタートしました。いざ並んでみると、タイミング的に欠品しているものもあったりしましたが、概ね希望するものを載せる事が出来ました。続いて、2度目の列に加わり、今度は初回に欠品だったものも確保する事が出来て、ドリンクを取ってからテーブルに戻りました。

食事をスタートさせると、「ショートケーキ類は何処?」と言う話になり、家内から「お父さんが待ってたレジの横に、ケースがあったでしょ!」と言われてしまいました。そんな風に食べ進めて行く内には、別メニューの孫も含めて、私達大人3人衆の太鼓腹は満腹感で満たされていました。そろそろ、帰ろうか?となった時、時間はまだ昼の12時前でしたが、1階の席には空席が目立ち、2階席を含めた上階の席は、いずれも満席らしく、とても賑わっていました。

そんな上階の光景を見て、取りに行くのも階段を利用する必要があり、しかも牛歩の歩みで疲れる仕様。それでも、それを持って、気に入った席に戻って、何時間でも寛ぐ事が出来るのは、この店の食べ放題時間が無制限だからで、朝食から昼食、更には夕食分まで賄えるなら、コスパが素晴らしい店だと、再認識したのでした。レジに精算に行くと、1階のテーブル席には空席があるにも関わらず、レジ前は相変わらずで、気に入ったテーブル待ちの人で溢れていました。

そんな光景を横目に見ながら、エレベーターで1階に降りて、前面の歩道に出ると、これからOcean tableで、ランチをする為のグループが、何組か歩いて来ていました。私達はと言えば、ついでだからと、左折して海の方に歩いて行き、モニュメントの前で写真を撮ろうとしていると、125ccのバイクと共に自撮りしていたお兄さんが、「撮りましょうか?僕はインフルエンサーなんで、写真は自信ありますよ!」と言ってくれたのでお願いする事にしました。

その後は、こちらからも、長女が代表して、バイクと彼を撮ってあげて、笑顔で別れました。写真会が終わってからは、再び、モノレールの駅を目指し、千葉都市モノレールに乗車して都賀駅で降りて、長女の自宅マンションに帰り着きました。時間は13時半になっていました。その後は、各自が思い思いの時間を過ごして、夜を迎えました。夕食は例によって、私はパスして、孫に食事を与える仕事に徹しましたが、初日のららぽーとの歩数と比べて、かなり少ない歩数だったので、体力的には余力がありましたね。

2025年6月30日は、長女も会社に出勤する必要があり、孫も通園日だったので、保育園には家内が連れて行くと言う体で、朝から3人で出掛けて行きました。家内は、間も無く帰って来ましたが、長女に頼まれたのか、自分から行きたいと思ったのかは不明でしたが、「午後からは、長女に行き方を教えて貰ったから、西松屋に行ってくるね!」と言って来たのでした。私はと言うと、連日のお出掛けのリカバリーデーと位置付けて、怠惰に過ごしていました。

午後から、家内が西松屋に買い物に出掛けても、その怠惰な生活は変わらずで、YouTubeの動画視聴を中心に、時折、昼寝タイムを設けて、ゆったりと過ごしていました。15時前に家内が帰って来ると、その手には、孫用の衣類の上下が数組入った紙袋が握られていました。その家内も夕食の準備を急ぎ、ある程度の準備が整ってからは、少し横になって寛いで、16時半頃から、都賀駅前まで、長女を迎えにいくのと、その帰り道で、孫を迎え行く為に、出掛けて行きました。
Posted at 2025/08/04 09:30:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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「千葉旅行とコロナ顛末記 その9 http://cvw.jp/b/3142171/48587573/
何シテル?   08/08 11:25
★老人ギタリストもどきです。どうぞ、宜しくお願いします!! どうせ老い先短い身の上ならば、素人でも楽しまなくちゃ!!とyoutubeデビューしました。...
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