Windows95が発売された1995年に、義弟が私の長男(当時11歳)にプレゼントしてくれた「IBMの ThinkPad 230CS」から、私のパソコン人生がスタートしたのは間違いありませんでした。このThinkPad 230CS(発売時は38.8万円)には元々はWindows3.1と言うMSDOSのOS(オペレーティングシステム)がインストールされていた機種でしたが、義弟が使い易いWindows95にアップグレードしてくれてプレゼントしてくれたのでした。附属品として外付けのフロッピーディスクプレーヤーと今では想像が付かない程に大型の外付けCDプレーヤーも付けてくれました。ThinkPadは、カタチ的には長男にプレゼントされた物ではありましたが、そこは未知の物への物珍しさが手伝って、父親の権限を発動して、私がメインで触ったものでしたね。ThinkPad 230CSはB5ノートパソコンでありながら、7.8インチDSTN256色カラー液晶を搭載してました。CPUも今では考えられない程に非力なものでしたが、とにかくカルチャーショックを受けるに充分な物であった事は事実としてありました。
以前にも書いた事がありましたが、Windowsのお絵描きソフトである「ペイントブラシ」で、お絵描きを楽しんでいた末娘(当時6歳)が、ある日、私に告げました。「お父ちゃん!絵が描けん!」私が急いで確認したところ、ペイントブラシの肝である色が失われていました。それには思い当たる事がありました。当時の浅識な私は、雑誌の付録で付いていたCD等で入手したゲームとかのファイルを不要になった時点で、何も考えずに平気で削除していました。つまり、削除する過程でその捨てるファイルに関連付けられていたファイルも同時に捨てていた事に気付いて無かったからでしたね。そこから、Windows95を正常な状態に戻す為の闘い(大袈裟)がスタートしたのでした。当時、所属していた部署にはパソコンに詳しい人は2人しか在籍していませんでした。その内の1人は直属の上司で、もう1人は技術部の人で通常は全国各地を飛び回っていました。従って、私が頼りにしたのは直属の上司であった事は言うまでもありません。私はThinkPad一式を会社に持参して、昼の休憩時間や就業終りのタイミングで、その多忙な上司を捕まえては無理筋でリカバリーの助成をお願いしたものでした。
上司も色々と難解なDOSレベルでファイルを操作してくれて、Windows95のリカバリーを手伝ってくれたものの、なかなか完全復活には至りませんでした。そこにはある問題が潜んでいたのでした。ペイントブラシの色が失われた時点で、外付けのCDプレーヤーとの接続も切れてしまっていたからでした。つまり、上司も当初はWindows95のインストールCDからの上書きを考えて、ThinkPadに外付けCDプレーヤーを認識させる事から始めたのでした。しかし、休憩時間や就業時間終わり程度の取組みでは、私の焦る気持ちが空回りするばかりで、嬉々として進まない状態でした。ThinkPadは幸運な事にフロッピーディスクプレーヤーは認識してくれていました。当時はまだまだフロッピーディスク全盛期でもあり、ファイル移動の多くはフロッピーディスク経由でした。そこで浅識な私にもある確信めいたアイデアが浮かんだのでした。それは、Windows95のフロッピーディスクタイプを購入して上書きインストールすれば良いのでは?と言う考えでした。とは言え、結構な高額なWindows95を購入する羽目に陥った因果応報な結果には心底参ったものでしたね。
この私の浅識の案は功を奏します。フロッピーディスクを20枚入れ替える作業はあったものの、それでWindows95が復活するのであればと、大して煩わしさを感じず精を出したものでした。このフロッピーディスク版には、それ以降も事あるごとに(色々と遣らかしました)重宝したものでしたね。インターネットの敷居が高かった頃のパソコンの位置付けは、私感ではありますが、ワープロの追加機能版だったと思います。会社で使用していたオアシスは、表は簡単に作成出来るものの自由に罫線を操って図面を描く機能には難がありました。そんな時代に福井県に出張した際、報告書の一部の図面を作成する為だけに、オアシスと共に、ThinkPadとプリンターを持参した事がありました。インターネットの敷居が高かった時代では自前のノートパソコンを仕事で使う事は普通にありました。そんな感覚でThinkPadを持参した私でしたが、現地では殆ど機能する事はなく、当時発売したばかりであった「たまごっちPC版」のスクリーンセーバーを動かしては、それを見て癒されていたと言うのがリアルなところでしたね。とは言え、殆どの出張にはオアシスは持って行くとしても、家族も使うThinkPadを持って行く事は稀でした。
自分だけのパソコンを持って無かった頃の私と言えば、関東エリアに出張した際には、必ずと言うか、毎週、休みの際には秋葉原に通っていました。真にパソコン目的だけでは無く、気持ち的には、離れつつあったアマチュア無線も、秋葉原に通う理由にはなっていました。そんな時、秋葉原の店頭で積極的にチラシ配りをするグループに遭遇します。秋葉原の接客スキルは、「決して無理強いしない、積極的に声掛けしない、質問されたらそれには答える」ものだと考えていた私からすれば、その光景は異様なものに映ったものでした。チラシの中身は、秋葉原のどのショップも追随不可能と思える様な破格の価格を掲載していたのでした。これには私もインパクトを感じ、促されるままに小さな雑居ビルの狭い階段を登ったのでした。到着したショップはかなり狭いスペースでしたが、大勢の客でごった返していました。そんな時、丁度、某テレビ局の取材が訪れたのでした。すると、小さなショップには考えられない様な塩対応で取材を断っていたのでした。普通であれば、ショップの宣伝になる機会を自ら放棄するこの行動には多いに驚いたものでしたね。
店員からチラシの商品について説明を聞いた私でしたが、遂には衝動買いに走ってしまいます。購入した商品は当時からCPUの絶対王者であったインテルに対して真っ向勝負に出たCPUメーカーのAMD社製のK6を搭載したデスクトップパソコンでした。色や解像度を司るビデオカードはMatrox 社製のMillenniumでしたね。それを当時出張していた千葉県の五井の旅館に購入手続き後に郵送依頼しました。その後、秋葉原内の他のショップで破格の15インチモニターも購入して、それは手に持って五井の旅館に帰ったものでした。そのパソコンは随分と後になってオウム真理教のパソコンショップから購入したものだった事が判明します。ショップ名が変わった名前だった事もあり、オウムの一連の事件があった後で、ショップ名を検索を掛けたところ、その事実が判明したのでした。そのショップの名前は「トライサル」と言う名称でしたね。当時は散々と同僚から「そのパソコンを使い続けると洗脳される」と揶揄されたものでしたが、自宅に戻ってメインパソコンとして君臨する様になってからも、「ベンチマーク競争」に目覚めて、マザーボードを含めて様々に部品を入れ替えた事で、同僚からの揶揄も払拭されて行ったのでした。
一方、ノートパソコンとの付き合いも、CD-R内蔵の富士通のFMVに始まり、シャープのメビウス、パナソニックのレッツノート、パソコン工房が販売していたショップノートパソコンと続き、ドスパラ製のプライムノートで、一応の完結をみます。このドスパラ製のノートパソコンは、搭載するCPUが Pentium Mで、自身初の15.6インチと言う大画面のノートパソコンでした。メモリーも当時としては最大容量の2GBだった事もあり、本当に重宝したものでした。そのパソコンが壊れてからは、長女が学生時代に使用していたシャープのノートパソコンが回って来たものの、結局は、実家に置いてあった実母が少しだけ使用していた富士通のノートパソコンに無理矢理にWindows10をインストールして、余計に動かなくなったノートパソコンを年賀状作成用のみの用途で、騙し騙し使用していましたが、遂に久し振りとなる新しいノートパソコン購入に至りました。地元の家電量販店を始め、色々なショップに行ったものの、最終的に選んだのは前回購入した事があるドスパラ製のノートパソコンでした。しかも、今回も当然ですが細部に拘りました。画面サイズは17.3インチ(WQHD2560X1440)の超大型で、CPUは第11世代 Intel Core™ i7-11800Hを搭載。ビデオカードはGeForce RTX3060 Laptop GPU 6GBを搭載し、メモリーも16GBを 32GBに変更して、NVMe SSDも500GBから 1TBにアップグレードした次第です。今後は、デスクトップパソコンであるAppleの iMac27(mid 2017)とドスパラ製のraytrek R7-TAノートが天寿を全うするまでの友の予定ですね。笑
2021年12月17日午後19時過ぎです。今、ヤマハのギター教室が終わりました。ところで、本日ドスパラサイトを確認したところ、私と同スペックが2万円引きになってました。思わずドスパラにクレームの電話を入れたもののどうする事も出来ず、泣き寝入りの巻と相なった次第です。ムカツク!
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2021/12/08 18:28:25