2014年12月30日
命の尊さ。じーちゃんの死。
みなさんこんばんは!
今年もあと24時間ほどとなりましたね~
今回のブログ、5月に死去した祖父のことを綴ってみようと思います。
今年一年間を振り返ってみて一番大きな出来事が、大好きだった”祖父の死”でした。
僕が今乗っているキャラバン。
車が大好きだったけど、歳と共に来る衰えから車を乗ることを諦めた祖父から譲り受けたキャラバンです。
1月31日に譲り受けてそれ以来大事に乗っております。
※そのときのフォトギャラリーはこちらです。
しかし僕にキャラバンを譲り受けて数日後、祖父が自宅で転倒。
そのとき祖母が病院に連れて行ったのもの体の異常はなし。
そこから数日後、足のむくみがひどくなったり体に変化が出ていることに気づき再度病院へ。
そこで医者に宣告されたじーちゃんの病状は「肺がん」でした。
今から10か月前にも一度、がんを患い手術にて完全に除去をしていたのですが、そこから月日が経ちまた再発。
入院をすることになりました。
じーちゃんは俺にキャラバンを譲り受けるまでは…って我慢してたのかもしれません。
本当に譲り受けてすぐの出来事でしたから…
病院の見舞いに行くとニコニコしながら歓迎してくれるじーちゃん。
「今日もキャラバン運転してきたよー!相変わらず調子はいいよ~」
なんて言うと「そうか、そうか。だいぶ運転にも慣れてきただろう」
とじーちゃんは笑顔で言いました。
がんを患いながらも見舞いに行けばいつも通りの優しいじーちゃんの姿がそこにはありました。
その姿を見るたびに俺は安心をしてました。
きっとまた元気になって、一緒に出掛けられるんだろうな。って信じきってました。
その後容態はよくなり再び退院。
退院してから家族でお墓参りにも一緒に行きました。
でももうそのときにはじーちゃんの体力はかなり弱っていて駐車場で少し歩いたところで歩けなくなってしまいました。
このとき俺の運転で行ったのですがじーちゃんを乗せて出掛けたのはこれが最初で最後でした。
しかもセレナだったのでキャラバンでどこかに行くって言う約束は叶わなかったのです。
退院できたものの、体力の弱りからかなかなか良い方向に向かわずまた入院してしまうことに。
その後もじーちゃんは入退院を繰返し自分の体と必死に闘っていました。
ある日肺炎も患い、医者には「今夜が山です。覚悟だけはしておいてください」と言われたこともありました。
でもじーちゃんはその肺炎も乗り越えました。
大体の体力が弱ったお年寄りは肺炎にかかると助からないケースが多いと聞きますが、じーちゃんはそれを乗り越えたので家族みんなでじーちゃんの生命力はすごいね!なんて言ってました。
じーちゃんはまた元気になる、俺はそう信じてました。
5月5日
いつも通り家族でお見舞いにいきました。
じーちゃんに声をかけると嬉しそうにニコニコしてるじーちゃん。
何かを俺に言おうと口を動かしています。
しかし連日点滴ばかりの毎日で声が出なくなってしまっていました。
そのため俺はじーちゃんが何と言っているのかが分かりませんでした。
そして、これが俺とじーちゃんの最後の会話になってしまいました。
今でもあのときじーちゃんは何を言おうとしてたのか心残りでたまりません・・・。
5月10日
病院からじーちゃんが意識障害を起こし始めたと一報が。
この日自分はバイトでちょうど出勤しようとしていたときだったので寸前で休ませてくださいと電話を。
最初は許可が下りなかったが事情を説明したら渋々休みをもらえました。
キャラバンに乗って慌てて家族で病院に向かいました。
病院につくといつもはゆっくり寝てるようにしてたじーちゃんが今日は苦しそうに息をしていてすごくもがいてました。
また声をかけても反応がなくこちらのことを分かってくれません。
しかし夕方ごろになると呼吸が少しずつ落ち着いてきました。
少しよくなってきたのかな?そんな風に思っていました。
そして6時頃、少し外出していたばーちゃんが病室に戻ってきました。
そこから本当にすぐです。
まるでばーちゃんを待っていたかのように…
じーちゃんの動きがぴくりと止まりました。
息をしなくなりました。
「じーちゃん?じーちゃん!!」
声をかけても反応がありません。
慌てて看護師さんを呼びました。
看護師さんは「今脈を打っていません。家族の皆さんいっぱい声をかけてあげて下さいませんか?」
そう言われて家族みんなで声をいっぱいかけました。
でもじーちゃんが再び息をすることはありませんでした。
しばらくして看護師さんは「きっと家族に見守られて、後は任せられると安心されたんだと思います。闘病生活にもだいぶ疲れてしまったのかもしれません。」
俺は何が起きてるのか分からなくなった。
「じーちゃん!キャラバンでお出掛けするって約束したよね?ねぇ!!」
そういった瞬間涙が溢れてきて声が出なくなってただ泣くことしか出来なくなりました。
頭の中はいつでも優しかったじーちゃんの笑顔とじーちゃんとのたくさんの思い出が駆け巡りどんどん涙が出てきました。
あんなに声あげて全力で泣いたのは俺自身生まれて初めてだったと思う。
その後、医師の先生が言い放った台詞は「18時26分、ご臨終です。」・・・と。
家族みんなに見守られながら俺のじーちゃんは天国に旅立ちました。
一緒に過ごしてきた18年間数えきれないくらいたくさんお世話になりましたよ。
俺が書道の展覧会で入賞すれば自分のことのように喜んで褒めてくれたじーちゃん、高校時代、部活のことを話せばうんうんと話を聞きながらも体には気を付けろよと心配してくれたじーちゃん、とにかくいつも優しくて孫思いだったことしか思い浮かびません。
じーちゃんが息を引き取ってから少し時間が経った夜の10時ごろ。
じーちゃんはエスティマの寝台車に乗せられて無言の帰宅をしました。
家に帰ってきたのはかなり久々だったと思う。
自分はその日、じーちゃんの元愛車であり自分の今の愛車であるキャラバンをじーちゃんの家に置いて帰りました。
久々に家に帰ってきて久々にキャラバンにも会えてじーちゃんにゆっくりして欲しいと思ったからです。
それから数日。
じーちゃんの通夜が行われました。
葬式では泣いても通夜では泣かないと思っていました。
通夜の途中ではじーちゃんの人生のエピソードみたのが語られるシーンがありました。
じーちゃんの誕生が誕生してからばーちゃんと出会って結婚して・・・親父が生まれて・・・などなど。
エピソードもだんだん最近の話になってきてそこで流れた台詞が
「孫に譲り渡した。キャラバン」
でした。
俺はその台詞がエピソードで流れたとき、急に涙が溢れ出して止まらなくなりました。
絶対泣かないって思ってたのになぜか涙が止まらなくて、通夜が終わっても泣き続けていました。
すると母方の一緒に暮らしてるばーちゃんが背中をポンポンしながら「あんたはしっかりしなきゃね!お兄ちゃんなんだから」と励ましてくれました。
通夜の日の夜ぼーっと考えてました。
俺じーちゃんが生きてる時に何か孝行したことあったかなって。
俺はじーちゃんのことが大好きだったから会える機会があれば積極的に会ってたし、できる限りのことをしてきたつもりだったけどじーちゃんはそれをどう思ってたのかなーとか。
最後に何か孝行らしいことしたいなと思って思いついたことが告別式の日、式の会場から霊柩車で火葬場まで行くときにキャラバンも出して一緒に走らせることでした。
そうすることによってじーちゃんは旅立つときに”人生最後の愛車だったキャラバン”に最期を見送ってもらえると思ったんです。
そのことを葬儀屋さんに伝えて、予定通り告別式の日は霊柩車と、お坊さんの車、身内(母と父)が乗る車の列にキャラバンも交えて火葬場まで向かいました。
火葬の直前、ばーちゃんが泣き崩れたときに少し涙が出ましたが自分の中で気持ちを整理して最期のお見送りができたと思います。
そのときはただじーちゃんにありがとう、ありがとうと感謝の気持ちを心に秘めていました。
亡くなって半年くらいはなかなか身近の人の死って実感がわかないものですよね。
じーちゃんまだ生きてるんじゃないかって本当にそう思っちゃうんです。
祖父の死から早くも半年が経った今ではじーちゃんは亡くなってしまったという実感は湧いてるものの去年の今頃はまだ元気にしてたのになーとかたまに考えてしまいます。
じーちゃんは自らの死をもって俺に「命の尊さ」を俺に教えてくれました。
このブログを読んでる皆さんにも大切な人、失いたくない人はいるかと思いますが、人間も生き物ですからいつ死がやってくるかわかりません。
こうやってブログ書いてる俺だって新年迎える前に死んじゃう可能性だって0ではないですからね(^^;
だから生きてるうちに精一杯感謝をして、孝行をしてあげてくださいね。
亡くなってからでは供養することぐらいしか出来なくなってしまいますから、、、
自分自身も祖父の死以来、命の重さについて再認識させられてより家族を大事にするようになりました。
特に残されたばーちゃんはさみしい思いをしているので実家に帰るついでにこっそりばーちゃんの家に寄ったりしてサプライズしてあげたりして少しでも元気にいてほしい思いで支えています。
あと、俺は形見となってしまったキャラバンを大事にすることが一番の供養だと思っているので大事に長く乗りたいと思っています。

ちょっと重たい内容のブログでしたがまた明日新年迎える前に何か書きたいと思います!
それでは今日はこの辺で!
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Posted at
2014/12/30 23:45:31
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