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dora1958のブログ一覧

2018年10月04日 イイね!

兵どもの夢の跡 一乗谷朝倉氏遺跡

兵どもの夢の跡 一乗谷朝倉氏遺跡一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)













福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡(日本の城)
戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡


一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。

遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡






現在の福井市街の東南方向約10キロメートル離れた、
九頭竜川支流の足羽川の、さらに支流である一乗谷川沿いの谷あいにある
戦国時代の城下町と館跡、および背後の山城から構成


一乗谷は東西約500メートル、南北約3キロメートルと狭小だが、
福井平野の端から山地に入ってすぐの場所に位置し、
数キロメートル先の目前に北陸道や大野盆地(大野市)に通じる美濃街道、
鹿俣峠を抜け越前府中(越前市)へ続く街道、北陸道と連絡した朝倉街道
などが通る、交通の要衝をすぐ押さえられる位置であった




一乗谷は東、西、南を山に囲まれ、
北には足羽川が流れる天然の要害で、
南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、
朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に
整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していた
。周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群



『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が
黒丸館(福井市黒丸町)から本拠を移したと記されている

応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが
避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花し
このため北ノ京とも呼ばれたそうです。



4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え
、越前の中心地として栄えていた

1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は
一乗谷を放棄し大野へ逃れ
翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰したそうです

庭園などは昭和に発掘整備されたようですね


Posted at 2018/10/04 09:43:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | お城 | 趣味
2018年10月03日 イイね!

兵どもの夢の跡 兵庫県赤穂城

兵どもの夢の跡 兵庫県赤穂城赤穂城(あこうじょう)







兵庫県赤穂市にある日本の城。
江戸時代は赤穂藩(加里屋藩)主の居城。
国の史跡に指定され、本丸庭園と二の丸庭園は名勝に指定されている。
別名・加里屋城、大鷹城


もともとこの地には
1600年(慶長5年) 姫路藩主・池田輝政の弟・長政が
赤穂領主となり赤穂城の前身である大鷹城を赤穂郡加里屋に築城

1645年(正保2年)浅野長直が5万3,000石で入封する

1648年(慶安元年) 6月17日(新暦8月5日)に幕府に築城計画を提出、
異例の即日許可となり、築城開始

1661年(寛文元年) 赤穂城が完成

縄張りは変形輪郭式。本丸と二の丸が輪郭式に配され、
その北側に三の丸が梯郭式に置かれている。
銃砲撃戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように
稜堡に良く似た横矢掛かりが数多く用いられている。
縄張りは赤穂浅野氏初代長直の時代、
浅野氏に仕えた甲州流兵学者の近藤正純によってなされた


1930年ころの赤穂城
ウィキペディアより引用







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赤穂城は5万石の浅野氏には過度に広壮で、これがために財政難に陥った。
5層天守の造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難の為か造営されず、
天守台のみが今日に残っている

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2006年(平成18年) 財団法人日本城郭協会による日本100名城(60番)に選ばれた

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Posted at 2018/10/03 03:49:05 | コメント(1) | トラックバック(0) | お城 | 趣味
2018年09月28日 イイね!

兵どもの夢の跡  愛媛県今治城

兵どもの夢の跡  愛媛県今治城今治城(いまばりじょう)










伊予国越智郡今治(四国・愛媛県今治市通町三丁目)にあった日本の城

昭和28年(1953年)10月9日に愛媛県史跡に指定
別称「吹揚城(吹上城)」。



慶長7年(1602年)、築城の名人 藤堂高虎によって築城開始され、
慶長9年(1604年)に完成

三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、
当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど
海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっている。
日本三大水城の一つに数えられている。





城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りだった

慶長14年(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封となり、
同時に天守は丹波国亀山城に移築されたといわれています






今治城の再建天守は、当初の建築の実在について明確な資料が少ないため、
史実に基づかない模擬天守
Posted at 2018/09/28 22:05:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | お城 | 趣味
2018年08月11日 イイね!

兵どもの夢の跡  広島城

兵どもの夢の跡  広島城


広島城(ひろしまじょう)







ハイドラCP取りに訪れました
毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城ですね



現在の広島県広島市中区基町に築かれた
安土桃山時代から江戸時代の日本の城。国の史跡に指定


大坂城や岡山城らと共に初期近世城郭の代表的なもので
名古屋城、岡山城と共に日本三大平城に数えられるそうです
日本100名城の一つに選定




記事はウイキペディアより引用

別名
鯉城、在間城、当麻城

城郭構造
輪郭式平城

天守構造
複合連結式望楼型5重5階(1599年・非現存)
外観復元(SRC造・1958年再)

築城主
毛利輝元

築城年
1589年

主な改修者
福島正則

主な城主
毛利氏、福島氏、浅野氏







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完成当初は、堀は三重に巡らされ馬出を多数備える実戦的な城構えで、
当時の大坂城に匹敵する規模の城だったといわれる


福島氏時代、穴太衆を雇入れ、毛利氏時代に不十分だった城の整備
および城下町づくりが本格的に行われた
外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城となったのは
この頃

同1619年(元和5年)8月8日、浅野長晟入城以降は浅野氏の居城となり、
明治時代に至るまで12代約250年間続いた


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1945年(昭和20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存し点在していた


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太平洋戦争末期にアメリカ軍の原子爆弾投下によって倒壊し


、現在見られる城内の天守以下城郭建築は
すべて1958年以降に再建されたもの


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Posted at 2018/08/11 05:22:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | お城 | 趣味
2018年08月06日 イイね!

兵どもの夢の跡  米子城

兵どもの夢の跡  米子城米子城(よなごじょう)













鳥取県米子市久米町にあった日本の城。

久米城、湊山城ともいう。

江戸時代初期は米子藩(伯耆藩)の藩庁であった。

跡は国の史跡に指定


以下記事はウィキペディアより引用

城郭構造
梯郭式平山城

天守構造
不明4重(1596年)
独立式望楼型4重5階(1601年)
ともに非現存。


城郭構造
梯郭式平山城

天守構造
不明4重(1596年)
独立式望楼型4重5階(1601年)
ともに非現存。
詳細は同項の構造を参照

築城主
山名氏か?

築城年
文明2年(1470年)頃

主な改修者
吉川広家、中村一忠

主な城主
山名氏、尼子氏、吉川氏 中村氏、加藤氏、池田氏

廃城年 1871年

米子城の歴史

応仁の乱時、西軍の山名氏が支配する伯耆と、
東軍京極氏が支配する出雲の国境は緊張した。
文明2年(1470年)尼子清定と戦った伯耆方が敗れて米子城に入るとあり、
この頃の築城と考えられる

永禄12年(1569年)、
尼子氏再興の旗揚げをした山中幸盛らは、米子城主山名之玄と結が
毛利方の吉川元春に攻められ落城、城主・山名之玄は自害

天正19年(1591年)、
東出雲・隠岐・西伯耆を領した吉川広家が城主となり、湊山に築城を開始
吉川広家は関ヶ原の戦いの結果、岩国へ転封される

慶長5年(1600年)、
豊臣秀吉の三中老であった中村一氏は東軍徳川方に加わった。
この論功により、一氏の嫡子中村一忠は伯耆一国17万5000石を領し
米子城に拠り、初代米子藩主となる。
米子城を完成させ、さらに新たに米子城下町を建設し、現在の商都米子の礎を築いた。


元和3年(1617年)、
加藤貞泰が大洲藩に移され、米子藩は廃藩
伯耆・因幡が全て鳥取藩池田光政の所領となったことにより、
米子城には家老の池田由成が城代として駐在

寛永9年(1632年)、
池田光政の岡山国替により、池田光仲が藩主となり、
明治維新に至るまで米子城は家老の荒尾氏が城代として駐在



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天守
慶長5年(1600年)に城主となった中村一忠が
吉川広家の四重天守の横に建てた独立式望楼型4重5階の天守で、
明治11年(1878年)に撮影された古写真が残っている

外観は2重目を大入母屋破風と千鳥破風・軒唐破風、
3重目には入母屋破風と千鳥破風、最上重には軒唐破風があった。
5階には望楼部の外廻り縁高欄を覆ったと見られている板庇があり、
特異な外観となっていた。

高さは21メートルはあったと考えられており、
本城である鳥取城の天守(2重2階)や三階櫓をもしのいでいた。








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平成18年(2006年)、国の史跡に指定される。
平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(169番)に選定される


Posted at 2018/08/06 01:25:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | お城 | 趣味

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