1
ユーノスロードスター(海外名 MX-5ミアータ)こんな素晴らしい(時代遅れの)車がどうして、生まれ出たのか書いてみたいと思います。(開発ヒストリーを書いてある書物、一部開発者からの裏話などからのただの想像ですのでそのつもりで 笑)
当時のマツダでは、通常のラインナップ以外に、既存の枠から敢えて外れ、自由な発想でクルマづくりに挑もうとする開発内部での「計画」があったのだそうです。(つまりは、計画であり、必ず生産するというプロジェクトでは無かった!これが、「最初の幸運」でした)
その当時の英国車等が雨漏りするとか、すぐに壊れるとか「ネガティブなトラブル」で、オープンが嫌いになるオーナーが多かったのであって、決してマーケットが存在しないのでは無い、欲しい人は少なくは無い!!
日本のメーカーの品質で造れば、マイナーなトラブルは無くなると、開発者(特に西海岸の人)達は思っていたのですね、事実そうだったです!
その新しいLWS開発の「計画」が動きはじめ、企画段階のアイデアでは、駆動方式もFR(MANAの一押し)、FF(H社 CR-Xを意識した本社案)、リアミッドシップ(T社 MR-2を意識した横浜研究所案)が一線に並び、オープンかクーペか...デザインスケッチを前に白熱の討議が続いたそうです。
当時CR-XやMR-2がLWSとして、流行っていたのですから、時代的にもFFかMRが提案されてしかるべきだったはず?
FRオープンなんて、考える方がどうかしていたのです(でもまだ、デザインコンペの段階ですから、自分の好きなモノを 笑)
2
「デザインスケッチ」段階では、FRオープンのデザイン(スープラ風?)よりも、FF,リヤミッドシップの方が、キレイで候補に挙がっていたのです。
が、2回目の「クレイモデル」でのコンペティションでは、MANA提案の「デュオ101」(ミアータの原型?)が一番カッコ良かったのが、「第2の幸運」でした(つまり、一応コンペに勝利して、勝ち残った)そのご褒美として、ランニングプロト(V705)を、造ってみようとしたのです。
それでも、たぶん本社での良識ある人の意見では、「いまどき、FRオープンなんて流行らない!」だったと思うのです、またまた幸運だったのは、FRオープンカー信望者(狂信者とも呼ばれていた?)がいたことですね。
その一人が横浜研究所の松井氏で、彼は何とかしてそれを推進する為に、まずは「DUO101」を英国のカムタムカー会社?に依頼して、SA22のシャシーに「DUO101デザイン」を乗せて?製作し雰囲気を見ました。
そして、彼は最大マーケット西海岸での人気を、証明する為に、サンタバーバラの公道を走らせる事にしたのです。
そこでは、トランスポーターから降ろすや否や、子供や人が集まってくる。ガソリンスタンドに行くと、これはどこの車か、俺も欲しい! と、騒がれ
街を走ると誰かれなく追いかけて来るので、民家に逃げ込むと、そこの住人が幾らなのか?俺も買う!とか...、挙句に写真を撮る為に追いかける人etc と言う「サンタバーバラの冒険」と言うエピソードも流れています。
とにかく、「注目度、人気は抜群!」で、立ち会った人達が、その感動を本社に報告をした時点で、プロジェクトの推進(仮のプロジェクトですが)が決まったのです!「第3の幸運」
3
でもそれは、まだ正式なプロジェクトではなかったのですが、とにかく初めて生産する(かもしれない)為の組織が初めて作られ、その主査に自分で申し出たのは平井敏彦氏でした。
「この車は、ワシにしか造れん!」
(この事が、最大の幸運ですね!! (*^^)v)
と(この平井氏の頑固、一徹ぶりが大きくモノを言ったのですね、もちろん責任感、判断力の確かさがあったからですが...)
開発にあたって最初の検討課題は駆動方式だったのは明白です。
「(人気があると言うのはカッコでしょう)カッコが認められたのなら、FFでそれを造れば良いじゃないか!」という人が多かったようです、そりゃ~そうでしょう
既存の小型車のコンポーネンツを流用できるFF 方式がコスト的には最も有利で、極端に言えばボディをスポーツカー風のものに載せ替えるだけでも、なんとか格好はつけられるだろうし、MR方式もエンジン、トランスミッションなどのパワートレインを丸ごと後方に移し替えれば、かなり流用は効くというのは明白だしね、「流用すればコスト削減出来る」とか、「F1だってミドシップである、ミッドシップはスポーツカーに相応しい!」なんていう人の声は説得力があったでしょう!?
これに対し、FR方式はその時代で、殆どFFに移行していて、駆動系を一から新たに作らなければならないので、最も投資を必要とするタイプなのですね。
「いまさら、時代遅れのFRなんかコスト的にも、採算も合わない!」と理詰めな説は説得力があって、覆すには大変だったと思います。
もっと酷いのになると「今更、屋根が幌のオープンカーなんて、馬鹿な事を考えるもんだ...」
とかオープンカーを根底から覆す意見も当然ありますね
(私も良識ある出世をになっている会社の人間なら言います 笑)
だが、LWSの走りにふさわしい軽快でニュートラルなハンドリングやレスポンスは、FRでなくては得られないと開発人は(馬鹿の一つ覚えみたいに)主張したとか..?
平井主査は、このレイアウトで無ければ降りる!と主張したとか..(ホントに、決められた時期までに量産する主力車種なら、この時点で主査交代でしょうか 笑)
4
でも「第4の幸運」この頃は、人員もわずかで、生産されるかどうかわからないプロジェクトなんて、誰も本気で注目していなかったのでしょう(笑)
結果「2シーターオープンカー、FR方式」の駆動方式で推し進めた。
その頃「オープン、2シーター、FR」という基本が決定された段階で、エンジニアたちは目指すべきスポーツカーの楽しさを『人車一体』という言葉によって共有化することになったとあります(笑 皆、その気?)
でも、まだその頃、正式プロジェクトではなくて、与えられた部屋は、キチンとした部署ではなくて、川沿いの使われていないガレージ(通称、リバーサイドホテル♪)だったそうです、最初は、部下は経験も無い若手5人だけだったとか..(涙)
とりあえず、この車の為というよりも、将来の為?その頃はまだ使われていなかったコンピュータでの設計(解析)を模索していた(どうでもいいプロジェクトだったので、いわゆる実験だったのですね 設計図を描くと時間もコストも掛かるのだとか)
でも、段々と面白そうだ!と言う訳で、一過言在る「好きな人達」が、他のプロジェクトが終わった後(勝手に残業で)集まって、あ~でもない、こうでもないとやっていたのですね! 手弁当で日曜出勤していたとか(^O^)/
H氏の言葉「あの頃は、本当に生産しないかもしれないと思っていた」...とか。
たぶん、そうだからこそ、「純粋」に、気ままに「ライトウエイトスポーツの理想」を、追い求めていたのですね!!
H氏「(出来ないかもしれないが)皆が自分の乗る、安くて、ホンモノのスポーツカーを、造るのだと思って取り組んだ」のだとか。
だから、その頃RX-7(FC3S)でも採用していないダブルウッシュボーン型サスペンション、PPF、アルミボンネット等、コストも、車格(だって一番安いスポーツカーなんですから)も、考えないわがまま設計が、出来あがった訳です。
コストや販売目標とかが全ての上司も、たぶん「生産するかしないか解らないような車は興味もなかった」し、感知しなかったのでしょう。 携わっていた人数も通常の10分の1にも満たないし、勝手に(理想を求めて)していたのでしょう。(
会議でも、正式プロジェクトの後に、もう疲れきった最後に話が出ていたそうです、で、ぉ偉い方は、皆もう「それで結構」みたいな...(笑)
デザインのT氏は、知る人ぞ知る、能面を打つのが趣味の、わがままボヘミアン?な、組織のはみだしモノ?(言いすぎですね)で、決定していた機器類の配置も考えず、勝手に「美を求めて」クレイモデルを削ってしまうのだとか(笑) あの美しい面は、そんなところから生まれ出ているんでしょう?
5
さて、バブルの頃、国内販売店「5チャンネル化」を目指して、クロノス兄弟や高級化を目指すセンティア、ユーノス800、ロータリーの理想を目指したコスモなどに、力を傾注していたメーカーでは、
国内でどれほど売れるか解らない(米国で売れたって、MAZDAの総販売台数における位置づけからは、取るに足らない)ライトウエイトスポーツなど、重要な会議でもどうでも良い最後の議題だったに違いないのです(笑)
こうして、「一部の好きモノの、話の種」のような車の設計は、進行し、プロトタイプは完成していったのです。
完成しつつある頃、
海外や国内(はどうでも良いのだが)のデストリビューター(販売店、取り扱い人)に、ライトウエイトスポーツの欲求度・必要度を尋ねたら、「RX-7(FC3S)がある現状では、ひとつのメーカーに2台も、スポーツカーはいらない!」との回答が多かったそうで、
一番酷い?ドイツでは、「(現在の)オープン2シーターの世界各国での販売状況を鑑みても、このようなクルマが売れるはずも無い、まさに無駄である!」の回答をよこしたとか...。
そのときの設計者は落胆し「一台でも、走れるまで造って、ドライブしてみたかった...」と思ったりしたそうです、もう殆ど完成いていた設計図の下で...。
でも、どうしても「自分の乗りたい車を設計して、乗りたい」と思った人達は、このデストリビューターの「いらない!」「必要ない!」との回答を受けても、この車(J58G)を欲しい人達はきっといる!!(いやそうでないと生産にこぎつけられないし、自分で乗れない)と信じて、一つの賭けに出たのです!
プロトタイプを主要販売地である米国の消費者(ユーザー)に、評価確認してもらおう!と、「フォーカスグループインタビュー」に、臨んだんですね
それは、
無作為で選んだ、年齢も職業、収入も違う人達を、部屋に集めて、J58Gプロトタイプを見て貰って、アンケートに答えて貰うという、企画です。国籍もメーカーも明かさず、(販売価格は公表して)J58Gを、評価してもらうのです。
お披露目して得られた結果は、通常の「買いたい」、「買っても良い」を、『大きく超える』数値の 220人中57人が
「ぜひ!買いたい!」の凄い評価であったと言う(感激... 涙)
その企画を別室で見守っていた、H主査,デザイナーT氏とも、帰りの飛行機は、「感激で眠れなかった」との事であった。
6
広島へ戻り、そのフォーカスグループインタビューでの『かつて無い 凄い結果』を、上司に報告すると、
「それほどまでに、望まれているのならば(他のメーカーに先を越されてはならない)一刻も早く、生産にこぎつけなさい!」とのお達しだった。
(少人数とはいえ、もう「見せちゃった」のですからね、噂になるのも確実なくらいの「凄い車」ですから)
マニアックな開発者達が、生産する事にならないかもと、好き勝手に理想設計していたプロジェクトが、「一刻も早く...」に変わった!!
設計図は、殆ど完成している、後は量産体制に移行時のコストや品質を、煮詰めるのみ..
まずは一刻も早く生産する為に、まず「デザイン凍結」された、たぶんそれに伴い贅沢なFRもダブルウッシュボーンも、アルミボンネットも、コストのかかるドアノブも、そのままにならざるを得なかった(のだろう?)、デザインが変更出来ないのだから...、
トランクが狭いとか、コクピットがタイトとかのネガティブな意見も、主査の責任で通した、「一刻も早く...」生産に漕ぎ着ける為に?
(でも、落としどころとしての、最終コストは達成していたのだ)
NHVの改善など、スポーツカーには「さして、重要では無い!」と、快適装備は前出の理由と設計する時間など無いと割リ切った?(それが極めて重要な60年代テイストを残す事につながったのか?)いずれにしても、奇跡的に、「通常ありえない車」が 1989年に発売された。
7
[PR]Yahoo!ショッピング
関連整備ピックアップ
関連リンク