
最近のマイブームは、神社仏閣巡りという、若干リタイア生活のような休みの日の過ごし方をしています(笑)
さてさて、そんな感じで先日、日本で最も有名なお坊さんゆかりのお寺へ行ってきました・・・

京都市内から京奈和自動車道を利用してクルマで1時間程度、
どちらかといえば奈良県に近い「京田辺市」という所にその寺はあります。
酬恩庵・・・別名「一休寺」。
その名の通り「一休さん」でおなじみの一休宗純が晩年を過ごしたお寺です。

一休宗純・・・室町時代の臨済宗大徳寺派の僧であり、詩人。
「一休さん」の説話のモデルとして、広く知られていると思います。

しかしながら、その史実は説話やアニメに登場する少し優等生タイプな「一休さん」とはかなり
異なっていたようです。

その生涯は、当時としてはまさに破天荒そのものでした。
その生い立ちからして、独特で、父は後小松天皇、母は藤原一族、日野中納言の娘・伊予の局とされており、宮廷を追われた母、伊予の局は子が政争に巻き込まれる事を恐れ、一休が5歳になると
臨済宗安国寺に入れ出家させました。

「周建」の名を与えられた一休は成長と共に才気を育み、
8歳の時に有名な「このはし渡るべからず」や、将軍義満に屏風の虎の捕縛を命じられ
「さぁ追い出して下さい」と告げ、ギャフンと言わせたトンチ話を残したとされています。

※この「はし」渡るべからず・・・ちゃんと真ん中渡ってらっしゃいます(笑)

その後の一休は・・・
28歳、大徳寺7世の追悼法要にボロ布をまとって参列し、この頃から奇人和尚と噂され始めます。
34歳、一休は庶民の間に飛び込んで行きます。1人でも多く、そしてあらゆる階層の人に仏教の教理を易しく説く為に、彼は一ヶ所の寺に留まらず、一蓑一笠の姿で近畿一円を転々と説法行脚して回りました。

さて一休の破天荒伝説は他にも数多く伝えられており・・・
・印可の証明書や由来ある文書を火中に投じた。
・男色はもとより仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の森侍者(しんじしゃ)という側女や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。
・木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされる。
・親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がりこみ、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。
その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、ふたりで大笑いしたという。
・正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。
などなど・・・まさに戒律をことごとく破る破戒僧・・・

こうした一見奇抜な言動は中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者と通じるものがあり、教義の面では禅宗の風狂の精神の表れとされているそうです。
同時に、こうした行動を通して仏教の権威や形骸化を批判・風刺し仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らすものでもあったと言われています。

さらに一休の人生は進みます。
53歳、自殺未遂をおこします。大徳寺内の派閥争いから僧侶数人が投獄され、自殺者まで出たことに胸を痛め、そして堕落した僧界に失望し、山へ入って断食死を試みました。
この時は天皇自らの説得(親書)を受けて思い留まりました。

62歳、これより200年前に尊敬する大応国師(臨済宗の高僧)が創建し、その後兵火に焼かれ荒廃していた妙勝寺を、一休は恩返しの為にと約20年以上かけて修復。
新たに酬恩庵として再興しました。
以後、この庵が一休の活動の中心地となり、これを知った多くの文化人が一休を慕って訪れました。
これが今日の「一休寺」と呼ばれる寺です。

73歳、京都で応仁の乱が勃発。一休は戦火を避けて奈良、大阪へと逃れます。
76歳、住吉薬師堂で鼓を打つ盲目の美人旅芸人・森侍者(しんじしゃ)に出会う。
彼女は20代後半。2人は50歳の年齢差がありましたが、一休はベタ惚れし、彼女もまた彼の気持を受け入れ、翌年から一休が他界するまでの10年間、2人はこの酬恩庵に戻って同棲生活を送りました。

80歳、戦乱で炎上した大徳寺復興の為に、天皇の勅命で第47代住職(住持)に任命されます。
そして、その莫大な再建費用を、堺の豪商達に仰ぎ、莫大な資金が集めました。
5年後、大徳寺法堂が落成し、一休は見事に周囲の期待に応えました。

しかしながら一休は大徳寺の住職となっても寺には住まず、酬恩庵からずっと通っていました。
その理由は同棲していた森侍者との生活を優先させたかったから、とも言われています。

「一休の禅は、一休にしか解らない」「朦々(もうもう)淡々として60年、末期の糞をさらして梵天(ぼんてん、仏法の守護神)に捧ぐ」と辞世を残し、当時の平均寿命の倍近い87歳まで長寿して、マラリアで亡くなりました。
臨終の言葉は「死にとうない」だったと言います。
悟りを得た高僧とは到底思えない、一休らしい言葉で人生を締めくくりました。

一休は他界する直前、「この先、どうしても手に負えぬ深刻な事態が起きたら、この手紙を開けなさい」と、弟子たちに1通の手紙を残しました。
数年後、弟子たちに今こそ師の知恵が必要という重大な局面が訪れ、固唾を呑んで開封してみると
彼らの目に映ったのは次の言葉でした。
「大丈夫。心配するな、何とかなる」

最後まで実に「一休さん」らしい手紙ですよね。
私も慌てず「一休み」してみます(笑)