サクっとまとめるつもりが長くなってしまいました^^;
このパリ講和会議での日本の「人種差別撤廃」の提案や、大東亜共同宣言は「戦勝国」たちにとって都合が悪いため抹殺された感があり、歴史の教科書にもほとんど載っていないのが現実です。
こう言う歴史をこそ子供達に学ばせてやりたいものです。
◆世界で最初に国際社会に人種差別撤廃を提案
大正8(1919)年2月13日、第1次世界大戦後のパリ講和会議国際連盟規約委員会において、日本は連盟規約に人種差別撤廃を盛り込むことを提案した。
国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した世界で最初の国が日本であった。
1919年当時としては、「人種差別を撤廃する」と言うのは非常に画期的な主張であったと思われる。
当時アメリカで人種差別と闘っていた、「全米黒人新聞協会」は、「我々黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」、「全米1200万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」とコメントしている。
◆白人至上主義の壁
当初、日本の提案に対して多くの植民地を有する英国や豪州などが反対に回った。
そこで日本は(かなり妥協して)、4月11日、国際連盟規約委員会の最終日、連盟規約の前文中に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」という一節を挿入することを提案した。
この再度の提案は多くの国の支持を得て、出席していた
16名の委員のうち、仏国・伊国を含む11名が賛成したにも関わらず議長であったウィルソン米国大統領は、この案に反対した。
それまでのすべての議題が多数決で採決されていたにも関わらず、突如『重要事項の決定は全員一致、少なくとも反対なしであることを必要とする』という原則を持ち出し、日本の再提案を不採択としたのである。
こうして
人種差別撤廃の提案は葬り去られた。
日本はパリ講和会議において、白人主義の現実を改めて痛感することになる。
4月28日の全体会議における連盟規約の決定に際して、
日本は日本案の不採択を遺憾とし、将来なお実現の努力を継続することを表明した。
そして、日本案と陳述の内容を議事録に留めるように求めることで、矛を収めざるを得なかった。
結局、
国際連盟という機構も、人種差別を前提とした白色人種だけの国益調整機関にすぎないことを白日の下に晒したのであった。
ウィルソンは14カ条の平和原則を発表し、「民族自決主義」を唱えていたが、その「民族」とは白色人種だけを意味しており、白人以外の有色人種には「民族自決主義」は適用されないということなのである。
◆ユダヤ人を守った日本
日本は日独伊三国同盟後も独国のユダヤ人排斥には同調しなかった。
1938年12月、日本政府の最高方針を決める五相会議において、
「ユダヤ人を排斥する事は、我が国が多年に渡り主張してきた人種平等の原則に反する」、「日本は満州、中国に居住するユダヤ人を排撃することなく、他の外国人と同等に扱う」などを宣言し、日本政府として、満州や日本国内にいるユダヤ人を擁護する事を正式に決めていたのである。
日本国内や満州に、ユダヤ人避難民を救援するユダヤ人組織がすでにできていたのはその為である。
日本の保護のもとで、一人のユダヤ人も殺害されていない事は明記すべき事実である。
当時、神戸で難民生活を送ったユダヤ人女性によれば、「当時あらゆる国が官僚的にユダヤ人に門戸を閉ざしていた時代に、日本政府が、ほとんど有効期限のないビザを受け入れ、長期間延長を認めた事が忘れられない。
この日本政府の行為は、神戸での人道的体験とあいまって全く独特なものだった」と述べている。
◆大東亜共同宣言
大東亜戦争中の1943年11月(昭和18)に東京で開かれた大東亜会議における大東亜共同宣言は、
パリ講和会議で不採択になった「人種差別撤廃」を高らかに謳った。
この宣言は日本、支那、タイ、満州、フィリピン、ビルマの6カ国に、自由インド仮政府を加えた実質7カ国の共同声明として出された宣言である。
大東亜戦争開始時点で
有色人種の独立国は4カ国(日本、支那、タイ、満州)以外に存在しない。
その他の国は全て白人達の植民地で国ですら無い扱いであった。
日本は大東亜戦争に敗れたが、その後アジア諸国は全て白人の支配から脱することができた。
◆世界人権宣言
1948年12月(昭和23年)
国際連合で「世界人権宣言」が採択され、日本が希求してきた「人種差別の撤廃」が実現した。
◆アジア・アフリカ会議
1955年バンドンで行われたアジア・アフリカ会議において「民族の自決」と「反植民地主義」が掲げられ、アジアで起こったドミノ倒しは、アフリカ諸国へ波及して行った。
アジア独立運動に関わった人々は、
「大東亜戦争が無ければ、アジア・アフリカ会議は無かった。日本はアジアの国々の独立を助け自由をもたらした」と言われている。
日本の行った戦争には、はっきりとした「思想」があったと、独立運動の指導者が言う。
日本は、敗れはしたが、結果としてアジアは、500年に渡るヨーロッパ人の支配から解放された。
日本がやらなければ誰にできたであろう。
当時、日本の人々の心の中に「アジアの共栄」があった事は紛れも無い事実であった。
◆セイロン(現スリランカ)代表 ジャヤワルデネ氏
「アジアの諸国民は、なぜ日本が自由になることを切望しているのか。
それはアジア諸国民と日本との長きに渡る結びつきのゆえであり、植民地として従属的地位であったアジア諸国民が日本に対して抱いている深い尊敬ゆえである。
アジア諸国民の中で日本が、ただ一人、強く自由であった時、アジア諸民族は日本を守護者かつ友として仰ぎ見た。
ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には祖国が解放されることを願って、日本に協力した者がいたのである」
◆タイ国元首相 ククリックド・プラモード氏
「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。
それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。
我々はこの日を忘れてはならない。」
◆インド元大統領 ラグ・クリシュナン氏
インドは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。
それを
我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。
驚きもしたが、
この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。
◆インドネシア元情報宣伝相 ブン・トモ氏
我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。
インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。
それなのに、
日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。
我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。
一度持った自信は決して崩壊しない。
日本が敗北したとき、「これからの独立は自力で遂行しなければならない。
独力でやれば五十年はかかる」と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。
◆ンド極東国際軍事裁判判事 ラダ・ビノード・パール氏
要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の17年間(昭和3~20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と刻印する事が目的であったに違いない。
私は1928年から1945年までの17年間の歴史を2年7ヶ月かかって調べた。
この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。
それを私は判決文の中に綴った。
その私の歴史を読めば、
欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。
それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。
満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。
日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。
あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。
あやまられた歴史は書き換えなければならない。
◆韓国 韓日文化研究所 朴 鉄柱 氏
大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。
彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。
戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。
日本は戦争に敗れて戦争目的を達成した。
日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、「聖なる戦争」であった。
二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。
◆イギリス歴史学者 H・G・ウェルズ氏
この大戦は
植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。
◆米国ハワイ日本経済事務局長 政治学博士 ジョージ・S・カナヘレ氏
日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、
正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。
(中略)
インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。
これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。
日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。
◆ビルマ元首相 バ・モウ氏
約50年前ビルマは3回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。
愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。
ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。
ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり。
◆インドネシア共和国元首相 モハマッド・ナチール氏
大東亜戦争というものは、本来なら私たちインドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。
もしあの時私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。
大東亜戦争はそういう戦いだったんです。
◆イギリス 歴史学者 アーノルド・J・トインビー氏
英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈されたことは、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。
それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。
なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。
1941年、
日本はすべての非西洋国民に対し、西洋は無敵ではないことを決定的に示した。
この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである。